蓼科高原バラクライングリッシュガーデンに行ってきました

2024年5月21日にロンドンチェルシーフラワーショー会場にてバラクラ イングリッシュガーデンのオーナーである、ケイ山田氏がゴールドコミュニティー賞を受賞されたので、本日は蓼科高原 バラクラ イングリッシュガーデンに行ってきました。

入り口からはいるとすぐに藤の花が出迎えてくれました。

階段を降りると、緑に囲まれたアーチをくぐります、エリアごとにテーマがあり変わっていく庭を見ることができます。

ベンチに座り、空を見上げ庭を見回す。周りに人はいない、鳥のさえずる声と木が風に揺られる音が聞こえてくる。

時間を忘れゆっくりとすることができました。

是非、お立ち寄りください。

信玄の棒道を歩く

蓼科ビレッジのエリアに実在している「信玄の棒道」を歩いてみると戦国史上重要な役割と意義を持っていることが分かります。この信玄の棒道は実存する戦国時代の貴重な史跡でもある古道なのです。そこで信玄の棒道に因んでビレッジの立地している地元富士見・茅野・諏訪地域から始まって信濃全土に広がった戦国史を探索してみることにします。
戦国時代の争乱はそれぞれ各地の背景や経緯、戦略的思惑、婚姻関係、近隣武将との戦いや和睦の繰り返しなどが複雑に入り組み連鎖しているためそう簡単には理解できないところです。富士見・茅野・諏訪地域もその例外ではありません。では結果から遡って信濃と甲斐との戦いの歴史について「信玄の棒道」を歩きながら時代を追って史実の大筋をみてみたいと思います。

激戦地の境川合戦(大永8年 1528年)
諏訪大社下社大祝の金刺昌春が諏訪大社上社大祝の諏訪頼満との争い(永正15年 1518年)に敗れ甲斐の武田信虎に助けを求めたところから信濃諏訪と甲斐武田の因縁の戦いが始まります。金刺軍が武田軍に援軍を求めた境川合戦(富士見)は諏訪頼満・頼隆父子が金沢木舟に陣を構えると一方武田信虎は蔦木の小東に布陣し御射山神戸から境川(立場川)一帯において戦われ結果夜襲により諏訪軍が武田軍を打ち破り勝利します。勢いに乗った諏訪軍は河原辺合戦(韮崎)(享禄4年 1531年)に臨んだがここでは諏訪頼満軍は撃退されてしまいます。(この境川とは諏訪氏と武田氏が戦う以前の信濃(諏訪)と甲斐(武田)との国境が今の立場川でありこの立場川を当時境川と呼んでいたところから境川合戦といいます。)

諏訪・武田の政略結婚
このような諏訪氏と武田氏の度々の戦いは双方にとって得策でないと悟り、ましてや武田氏は強敵小田原の北条氏からの脅威もありお互いに諏訪氏と武田氏は同盟関係を結ぶことになります。その証に信虎は息女禰々(信玄の妹)を諏訪頼重(頼満は67歳で亡くなり長男も若くして死亡しているため孫の頼重が家督をとる)の正室として嫁がせたのです。やがて禰々は息子寅王丸の母となりますがこの可憐な母子には後に不吉な悲運が待ち受けているのです。禰々が嫁ぐときの持参金の代わりとして信虎が当時甲斐の領域である境川(立場川)から国界橋の釜無川までを割譲したことから現在の境界線となりました。その後頼重の先妻の息女は信玄に嫁ぎやがて息子勝頼(信玄の跡継ぎ)の母となるのです。これがいわば人質の交換であり政略結婚であったのです。
こうして諏訪・武田両軍は協力し合って各地の敵と戦いお互い力を付けていくのです。しかしこの同盟も長くは続かずまたお互いの身内同士の戦いを始めるのです。一方勝頼は織田信長の養女龍勝院が嫁ぎその後甲相同盟で北条氏政の妹北条夫人(桂林院殿)と結婚します。だが後に織田軍との戦いで信長によって敗れ名門武田家は勝頼が最後に北条夫人と共に滅亡してしまいます。こうした乱世の狭間で翻弄されながらも一族のために強く生き抜く戦国女性の姿を見逃すことはできません。
長篠の合戦(天正3年 1575年)の後勝頼の最後の戦いで甲斐の兵士たちは劣勢になると皆逃亡や謀反でいなくなってしまうのですが最後まで忠誠を誓い残って戦ったのは諏訪の郷里の兵士だけだったのです。というのも彼らは武田勝頼ではなくあくまでも諏訪勝頼として絶対的な信頼と尊敬をもっていたのです。地元諏訪の人びとの強い絆と連帯感は諏訪大社の大祭である御柱祭や夏の風物詩諏訪湖花火大会もその一つとしての表れなのです。このように強い絆は信仰心や伝統を守るという連帯感から素晴らしい郷土文化を生みそのなかから著名な文化人や文学者も出現し今も脈々と継承されているのです。

激戦地の瀬沢合戦(天文11年 1542年)
信玄が父信虎を追放(天文10年 1541年)し家督を継ぎ実権を握ったのが21歳の時であった。ところがそんな武田家の内紛に乗じまた信玄の若さにも付け込んだ諏訪頼重は小笠原氏との連合軍でこの時とばかりと甲斐に攻め込むが逆に撃退されてしまいます。翌年武田軍は信濃の村上・小笠原・木曽・頼重の連合軍と瀬沢(富士見)で激戦になり続いて桑原城の戦いから大門峠の戦いまでに発展し信玄を討つという信濃諸将の思惑に反し信玄に信濃侵攻の契機を与えることにとなってしまうのです。(この瀬沢地域に流れる武智川はその時の合戦で損害を受けた武田軍兵士の血で染まったという武血川から由来しているとのこと。)
この謀反に怒った信玄は妹禰々の桑原城主頼重を自刃させてしまいます。しかし禰々(信玄の妹)とその息子寅王丸は甲府で厚く庇護されるのです。しかし禰々は悲しみのあまり僅か16才で亡くなってしまいます。一方寅王丸は後に高藤・藤沢・伊那軍との宮川橋合戦(安国寺前合戦)で大活躍し信玄の信頼を得るのですが父の仇として暗殺を企てているとは信玄はこの時知る由もなかったのですが結局信玄に殺害されてしまいます。
そして信玄は小笠原氏の地盤の東筑さらに信濃の小県地方をも攻めあの真田氏領土をも支配領域下にしている信濃一の闘将宿敵村上義清(坂城)との戦いに上田原へと軍を進めるのです。父信虎の時代には村上義清とは同盟関係にあり真田幸隆を攻めていたのですが信玄の時代になると真田氏と武田氏は逆に同盟関係になります。これも当時としては存続をかけて領土と一族郎党や民を守るためには当時一番の得策(謀反・和睦・同盟)を選ばざるを得なかった群雄割拠の時代だったのです。

信玄の軍用道路
こうして信玄は敵地信濃の国へ奥深く進むのです。その信濃を攻略するためには甲斐からの軍隊・物資・食料・武器など運ぶのに迅速でしかも効率的な補給路でもある軍用道路が必要だったのです。小淵沢から富士見に続きこのビレッジの中にも残されている古道がこの時代のいわゆる「信玄の棒道」なのです。そう思うとこの蓼科高原も戦国史上重要な場所に位置していたことが改めて感じられます。こうして信濃の小県・上田原の戦いとその後上杉謙信との川中島の戦いへの重要な軍用道路ということになるのです。
一方この棒道はただ単に戦いのための道路でなく戦場に向かう兵士の悲愴な気持ちや、戦場へ見送る幼子を抱えた家族の切実な思いなど様々なドラマが詰まっている道でもあるのです。

上田原の戦い(天文17年 1548年)
宿敵村上義清は坂城の居城葛尾城を出発し上田原の西側で東側の武田軍と対峙することになります。中央に流れる産川を挟んで激戦が展開された。結果地の利を生かした戦いで戦術と武力に優れた村上軍の勝利となりました。結局武田軍は板垣信方・甘利虎泰等多数の重臣を失い信玄自身も負傷するという敗北に終わるのです。
そこで戦術と武力での正面からの戦いを避けた信玄は真田幸隆を使い内部工作により村上側の身内への切り崩し作戦に変えるのです。戦術と武力に長けていた村上義清もこの情報戦には負けてしまい戦うことなく越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃亡してしまいます。
義清の奥方は逃亡する際戦乱の世を憂いて前山の場所で尼さんになってしまいます。その山の断崖の上に化身となった比丘尼石(びくにいし)という尼さんの大きな姿の岩が佇んでいます。この村上家の逃亡の場面に関しては他にも史実と地元の伝説や逸話(千曲川に掛かる笄の渡しなど)が多々あり私たちを楽しませてくれます。ここから上杉軍と武田軍の戦いが川中島で始まることになるのです。

川中島の戦い(第4次の戦い 永禄4年 1561年)
川中島での戦いは実は5回も戦っているのです。一回目は村上軍が獲られた葛尾城の奪還のため上杉軍の援軍での戦いです。二回目は善光寺を巡る戦いになります。三回目は両軍にとっての重要な北信濃の攻防による戦いになります。そして四回目が激戦の川中島の戦いになるのです。ここで武田・上杉軍双方は最終的に決着をつけようという決戦に挑むのです。上杉軍の1万3千は妻女山、武田軍の2万(今川・北条軍の援軍を含む)は海津城(松代城)で対峙することになり霧の川中島八幡原において大激戦になります。

謙信と信玄の両雄の一騎打ちもあるのですが結局双方7千人もの戦死者を出したものの決着は付きませんでした。戦いで信玄の弟信繁・重臣の山本勘助らが戦死、勘助は体を切り離され仲間が持ち帰った胴体と頭を合わせたという場所が胴合(どあい)橋で埋葬地も長野インター近くにあります。戦い後両者は敵味方問わず一緒になって戦死者を集めて弔ったのですが何せ7千人ですから小高い丘のように積み上がり今でも首塚として古戦場公園に残っています。大損失を受けた両軍は甲斐と越後へ引き返すことになりました。さらに懲りもせず五回目の戦いは飛騨の争いに上杉軍が援護に出発すると武田軍も応戦のため出発し川中島で相対することになりますが双方とも結果が得られず引き上げその後は二度と川中島では戦うことはありませんでした。結局川中島での5回の戦いで両軍は痛み分けに終わったのです。
こうして両軍が信濃で争っているうちに中央では徳川と織田(豊臣)両軍は後に真田昌幸・信幸・信繁(幸村)親子を巻き込んで着々と天下取りを窺っていたのです。そして天下分け目の戦いの関ケ原合戦(慶長5年 1600年)になるのです。

信濃の戦国史
結果から遡って信濃の国をみれば上社諏訪氏と下社金刺氏とのいざこざがなければ諏訪氏と武田氏との境川合戦・瀬沢合戦から始まって、村上軍(信濃)と武田軍(甲斐)の上田原合戦さらには武田軍(甲斐)と上杉軍(越後)の川中島合戦へと発展することは無かったのではと思われます。少なくとも信濃の国が戦場になることは無かったかもしれません。また信濃の各地の武将も滅ぼされかつ領土も奪われることも無かったのではと反面では想像されますがその後の史実をみれば甲斐の国と信濃の武田領国は勝頼を破った織田信長によって平定され結局最終的には大坂城夏の陣で徳川家康の天下になってしまいます。

戦国の世を左右する諏訪の地
いずれにしてもこの富士見・茅野・諏訪地域は事実、戦国時代何度も戦いが繰り返された代表的な激戦地のひとつなのです。特に天正10年(1582年)は激乱の年になるのです。飯田・伊那・高遠を平定し杖突峠を越えて諏訪へ入った信長の長男信忠は3月3日戦いが終わっているにもかかわらず武田家と諏訪の人びとが心の拠り所として崇拝する諏訪大社上社に放火してしまいます。歴史は古く西暦が始まる頃と推定され全国に1万社もあるといわれ建御名方命を祭神とする総本社の諏訪大社上社を焼き払うとはいくら戦(いくさ)といえども織田氏はとんでもないことをするものですね。
武田勝頼の敗北後、武田家の領地分割について織田信長と徳川家康が諏訪大社近くにある法華寺において話し合いの場を設けたのですが(3月20日)、奇しくも勝頼の故郷で分割協議がされたとは皮肉なものです。また法華寺は織田信長と明智光秀との些細な出来事(3月19日~4月2日の間)が原因で「敵は本能寺にあり」の歴史を大きく変える大事件に起因したともされる寺院なのです。
そして諏訪大社上社が放火されてからわずか3か月後の6月2日信長は京都本能寺で長男信忠は二条御所で命が尽きるのも諏訪大社大明神の神罰なのでしょうか。
このように諏訪の地は戦国時代の今後の天下取りを左右する重要な地ということが分かります。一方徳川家康は焼かれた諏訪大社上社の再建に尽力をつくしたところから諏訪大社大明神が守護神となり徳川の江戸時代を長く続けさせてくれたのかもしれません。

法華寺
現在の法華寺は山門と本堂(廃仏毀釈後再建されましたがその後また放火で焼失し(平成11年 1999年)さらにその後再建した建物)だけですが江戸時代末の法華寺周辺絵図をみますと仁王門があり五重塔あり神宮寺があり普賢堂から大黒堂や鐘楼など山全体が広大な境内になっているのが窺えます。織田信長が滞在していた2週間(天正10年 1582年3月19日から4月2日)の間には徳川家康をはじめ多くの諸武将が兵糧や贈答品を持って信長のご機嫌を伺い忠誠を誓いに訪れたところからも信長の力を感じます。そのなかで北条氏政は本人が姿を見せず使者を送ってきたため信長の不興を買うことになり武田家の領地分割から外されてしまいます。このように政治の中心であるかのような法華寺でしたが明治維新で廃仏毀釈の仏教文化破壊により境内一帯の建物や寺、特に日本古来の神の信仰と外来仏教の信仰とを共存・融合・調和を理念とする神仏習合思想を持つ歴史上重要な神宮寺と共に廃寺され当時の面影の文化遺産を見ることができないのは残念なことです。

信玄の棒道
これら戦国時代の富士見・茅野・諏訪での史実とエピソードとが入り混まじった戦国の世の出来事に空想や想像も膨らみ興味は尽きることはありません。これらの戦記については富士見・茅野・諏訪のかつての戦場に巻き込まれた場所の方々から語り継がれた話を聞くことができ、またビレッジのスタッフからも豊富な知識と貴重なご意見を賜りました。このビレッジのエリアに戦国の歴史が実在する「信玄の棒道」は武田三代・徳川家康・織田信長・真田三代らの名将が活躍した戦国の世へと導いてくれます。その当時の戦国の世界へ逸る気持ちを抑え皆様方も今から500年前の激戦の戦国時代を馳せながら史跡の軍用道路「信玄の棒道」を歩いてみませんか。(高)

湯の丸高原とその周辺観光地

長野県の東側に位置している東御市は巨峰とクルミが有名な街です。

東御市と群馬県嬬恋村にまたがる湯の丸高原は浅間連峰の西側に位置し、その名のとおり、丸く穏やかな表情の峰々と、爽やかな亜高山帯の気候がおりなす一帯は「花高原」として親しまれています。有名なつつじ平のレンゲツツジ大群落は、国の天然記念物にも指定され、初夏6月下旬には湯ノ丸山の山肌を鮮やかな朱色の絨毯のように染め上げます。毎年レンゲツツジが満開の頃に、つつじ祭りも開催されます。                                   湯の丸高原 – 一般社団法人 信州とうみ観光協会 (tomikan.jp)

5月2日時点ではまだ蕾状態でした。

 

最近は高地トレーニング聖地 湯の丸高原として有名になってきています    標高が1750m~2000mある湯の丸高原には高地トレーニング施設、GMOアスリーツパーク施設湯の丸があります。

                                  高地トレーニング用プール施設、400mトラックがありアスリート養成施設になっていて、金メダリストもここで練習をしていたそうです。             400mトラックを走ってみました・・・

2回走ってみました・・・高地のせいかかなりつらい400mでいた((+_+))             2回目の方がちょっと早く走れました。                            興味のある方は問い合わせしてみてください。                          GMOアスリーツパーク湯の丸 (city.tomi.nagano.jp)               湯の丸トレーニングリゾート | (lumina-event.com)

湯の丸はハイキングやスキーなど年間通して遊ぶことができます

湯の丸スキー場★首都圏に一番近い天然パウダースノーリゾート (yunomaru.co.jp)

 

 

 

湯の丸高原に行ったらぜひ寄っていただきたいお店アトリエ・ド・フロマージュの紹介です。                                 アトリエ・ド・フロマージュ | 1982年創業。長野県東御市のチーズ工房 (a-fromage.co.jp)

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チーズが有名なお店で数々のコンテストで賞を受賞しています。                           工場と売店、レストランが併設されていて自家製チーズを使ったお料理が食べられます。                                   今回はスイーツを食べて来ました。

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普段は初めてのお店ではメニューの一番上を頼むと決めていますが、今回は店員さんのおすすめを聞いてフォンテーヌブローを注文しました。                  チーズとクリームのバランスが良くて大変美味しゅうございました。

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チーズソフトクリームも注文しました。                                 チーズ風味のなめらかなソフトクリームでした(゚д゚)ウマー

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東御市の温泉施設、湯楽館(ゆらりかん)に行って来ました

湯楽里館 | 東御市の高台にある日帰り温泉施設です。 (tomi-kosya.com)                       東御市の丘の上に建つ温泉施設でぶどう畑の真ん中に立ち、眼下に東御市・上田市の街並み、遠くに八ヶ岳・蓼科山・美ヶ原高原・北アルプスの山々を一望できる眺めの良い温泉です。                                         少しぬめりのあるお湯で 神経通、筋肉痛、関節痛、慢性消化器病 冷え性などに効くそうです

東御市は巨峰の生産が盛んで巨峰を使ったソフトクリームを食べました。                 巨峰の果汁入りソフトクリームは甘酸っぱくて美味しい(゚д゚)ウマーウマー

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湯楽里館には とうみワイン&ビアミュージアムが併設さてれいます                                      東御市で作られているワインとビールの紹介をしていて、試飲もできます。

湯楽里館ワイン&ビアミュージアム – Tomi wine & beer museum (tomi-kosya.com)

OH!LA!HOビールは地ビールが解禁された時に出来た醸造所です。         オラホビール OH!LA!HO BEER | 長野県東御市のクラフトビール (ohlahobeer.com)

東御市には ワイナリーがたくさんあるので試飲をしてみてお気に入りのワインをみつけてみてはいかがせしょうか。                       ワイナリー・ヴィンヤード一覧 | TOMI WINE STORY|東御ワインストーリー

蓼科から1時間くらいの場所なのでドライブにでかけてみてください。

蓼科の春

八ヶ岳は雪解けが進んでいます。

滝見平入口【4月22日(月)】

4月21日(日)TOYOTAガズーレーシングラリーチャレンジin八ヶ岳茅野が

開催されました。

聖光寺【4月22日(月)】

聖光寺【4月25日(木)】

今週末が桜の見ごろになりそうです。

源氏物語を読む

今年の1月7日からNHK大河ドラマ「光る君へ」が始まりました。今まで戦国時代ものが多かったのですが今回は平安時代ものでこれを機会に平安文学の源氏物語を読むことにしました。

光る君への作者は大石静で主人公紫式部「まひろ」を吉高由里子、「藤原道長」を後の左大臣として政権の頂点に立つ役に柄本佑が演じています。源氏物語は光源氏が主人公ですが光る君へは紫式部(まひろ)を主人公としています。「源氏物語」では光源氏が女性たちと恋愛を通して最後には恵まれた境遇へ導きますが「光る君へ」では紫式部(まひろ)が道長と恋愛を通して時の最高権力者へと導いていくように思えます。そんなところを光る君へのドラマと比較しながら源氏物語を読でみたいと思います。

源氏物語とは
源氏物語は平安時代4百年のうち中期に当たる時代に紫式部によって書かれた長編小説で現在まで1千年も読み継がれている不滅の国民文学なのです。平安貴族社会における独特のストーリーで左大臣や右大臣をはじめそれぞれの階級(摂政・大臣・公卿)等における政治・出世・権力・そして帝への世継ぎ争いのなかにいかにも女性らしい表現・感性・意識がまた男性の立場から書かれているところにも魅力を感じられます。主人公の光源氏は生まれながらの和歌・漢詩文の表現に才能があり皇子としての素質も素晴らしくまた内面的に強さもあるがちょっぴり弱さも備え恋心をくすぐる魅力あるそんな彼を取り巻く姫君たちとの恋愛姿のなかに出会いと別れと出家そして死別の生涯を写し出した人間模様の物語だと思われます。

貴族社会と紫式部
光源氏の誕生から生涯の出来事に日本の四季を通して宮中の儀式・慣習・生活様式・恋文の和歌のやり取りを取り入れた中に平安時代の一端を垣間見ることができるのも私たちに当時の貴族社会への想像をかきたてます。紫式部は女性らしく美しい四季を通した風情とそれに伴う草木の花に興味を示しそのなかでも紫色の花が特に好んでいたように思われます。というのは桐壺の上・藤壺の上・葵の上・若紫(後の紫の上)・夕顔・朝顔・藤袴そして何より紫式部自身にも紫を引用しているのです。それは唯一帝の后にしか着ることが許されない紫色の御召し物の小袿姿に憧れていたのではないかと想像されます。作者も貴族社会のなかの女性のひとりなので「願わくは」と思っていたのでしょうね。

平安時代の言葉
物語のなかで紛らわしいのは同一人物においてその時々によって名前の呼び方がいくつもあるということです。例えば光源氏は(皇子・若宮・源氏の君・光る君・六条院)藤壺の女御は(先帝の四の宮・后の宮の姫君・藤壺中宮・輝く日の宮)などです。それと源氏を取りまく人物相関図や姻戚系図も複雑なのです。平安時代の言葉や言い回しも独特な古語のため戸惑う面もありますが解らなくともいちいち気にすることはなく自分なりに読み続けていくと何となく文章が繋がって意味も分かるような感じがしてきます。古語といえども所詮日本語だと思えば気が楽になります。物語は源氏が歳をとるにつれてストーリーも進んでいくのでその点では分かり易いと思われます。また解釈は自己流で間違っている箇所もあると思われますがそこはご容赦願います。では古典ロマン最高傑作の平安貴族社会の世界に入っていきたいと思います。

桐壺
「いずれの御時にか、女御更衣あまたさぶらいたまひける中に、いとやむごとなき際にあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。」(どの帝の御代の時であったか、女御(皇族や大臣家の娘)更衣(大納言家以下の娘)がたくさんお仕えしていた中に、たいした位の家柄ではない方で、特別帝に可愛がられていた方がおられた。)という書き出し文から4百字詰め原稿用紙だと約2千5百枚分の長編小説が始まります。やがて彼女は帝の后(桐壺の上)になり皇子(光源氏)が生まれます。しかし周囲からの嫉妬や嫌がらせ誹謗中傷に耐えきれず更衣出身の桐壺の上(源氏の母)は源氏3才の時に亡くなってしまいます。その後帝は妻に若い藤壺を后(先帝の第4皇女)に迎えます。源氏は亡き母(桐壺の上)に面影も気立ても似ている藤壺の宮を慕うのです。藤壺の宮もこれに応えるのでした。人びとはこの二人を「光る君」「輝く日の宮」と呼ぶようになります。やがて源氏が12才になり元服(成人式)になるのを待っていち早く左大臣は自家の将来を賭けて娘(葵の上)と結婚させるのですが4歳の年上に加え教養も気品も高く高貴な姿勢の姫君に馴染まず私邸の二条院に籠りがちになってしまうのです。そのため源氏はますます気持ちのなかでは帝の后藤壺の上に惹かれていくようになるのです。

箒木・空蝉・夕顔
五月雨の夜源氏(17才)が宿直(とのい)をしているところへ同じ年ごろの同僚たちが集まり四方山話をしているうちにそれぞれ自分の憧れの女性の話に花を咲かせます。これがいわゆる「雨夜の品定め」です。そんな話を聞かせられた源氏は妻の葵の上と馴染んでいないこともあってある女性に目が止まります。紀伊守の妻に憧れを持つようになりますが彼女は紀伊守の妻であるゆえ身の程のことを思い源氏と再度逢うことを拒んでしまいます。そこで紀伊守の妻を箒木(遠くでははっきりと見えるがいざ近くへ行くと分からなくなる)の草木に例えて「貴女の気持ちを知らないで近づこうとしたのですが箒木のように分からなくなり園原の路に迷ってしまいましたよ」と歌を詠んでいます。この箒木の帖(巻)において源氏物語のなかで唯一信濃の国が登場します。それは信濃の下伊那地方の園原の伏屋の森にある草木でいわゆる掃除に使う(ほうき)の木を紹介しています。当時国の等級が4階級あり信濃の国は上から2番目に位置し重要な国の一つでした。後に紀伊守の妻は転勤の夫と共に地方へ下ることになりお別れの形見に上着を源氏に差し出します。源氏はこの上着をセミの抜け殻と指し彼女を空蝉(うつせみ)に例え尽きることのない悲しみともの思いにふけるのです。ここに紫式部の女性らしい表現がみられます。空蝉は夫の亡き後、多くの下心ある男性に悩まされた挙句、尼さんになって出家してしまいます。
空蝉への悲しみの気持ちを引きずりながら五条に住む源氏の乳母への病気見舞いにでかけることにしました。道中垣根にみごとな夕顔の花が咲いている女性の家を見つけます。源氏はその女性をこの垣根の夕顔に連想してお目にかかりたいと申し出てお会いになります。だがその年の秋夕顔は突然物の怪に襲われ(左大臣家の頭中将との娘の玉鬘)を残して息絶えてしまうのですが源氏もまた悲しみのあまり病に倒れてしまいます。そんな源氏の内面の優しさや弱い面もあったのです。

若紫
18才の春、源氏は病気になり北山の聖のもとへ療養に行きます。そこである少女に出会います。その少女は源氏が思慕する藤壺の宮に似ていることに気づくのです。それもそのはず藤壺の宮の姪(若紫・後の紫の上)なのです。その若紫にお付き合いを望むのですが周囲の尼さんたちからあまりにも若すぎる幼い童女のため断わられるのです。やがて帰京する源氏は藤壺の宮に似た若紫を忘れられず帝の妻藤壺の宮を訪れ、こともあろうに逢瀬をもち懐妊してしまうのです。(この部分は現代文学志賀直哉の暗夜行路の主人公時任謙作の出生にまつわる人間関係に似ています。)懐妊を知った源氏は藤壺へお見舞いに行くのですが身の程を知る藤壺は会うことを固くなに断るのです。そんなこととは知らない父・桐壺帝は身重になった藤壺の宮へますます愛情を注ぐのです。途方に暮れた源氏は北山の幼い若紫を自分の私邸二条院へ同じ幼い年ごろの童女たちの仲間と一緒に遊ばせようと連れてくるのでした。

紅葉の賀
桐壷帝は祭りに身重の藤壺の宮にも息子源氏(19才)が踊る青海波という舞を見せようと連れ出します。しかし藤壺の宮は源氏の舞を心穏やかにまともに見ることはできなかったのです。一方二条院で無邪気に遊ぶ幼い童女の若紫を源氏の妻葵の上は幼い童女を嫉妬するのです。そうこうしているうちに藤壺の宮は皇子を出産します。桐壺帝は大変な喜びようで何も知らない帝はその男児を息子の源氏に抱かせるのですが当の源氏と藤壺の宮は全身が凍り付く思いで複雑極まりない心境あった。そんなことで源氏は子供の顔を見たいのですが二度と桐壺の帝へは行くことはできなかったのです。


賀茂神社の祭りでは源氏(23才)がその葵祭の行列に加わるということで妻の葵の上は牛車で見物に出かけます。この時葵の上は結婚して10年目にして源氏の子を宿しました。一方愛人の六条御息所(故前皇太子の未亡人で高貴な女性)も人目源氏を見ようと網代車で出かけます。ところが一条大路で鉢合わせになってしまいます。当然葵の上の車の方が格上で権力もあるため六条御息所(愛人)の車を押しのけてしまうのです。源氏はこの顛末を知り六条御息所(みやすんどころ)に同情をするのですが六条御息所の気は収まりません。収まらないどころか嫉妬が大きすぎ怨念となって葵の上に物の怪となって取り付いてしまうのです。やがて葵の上は男児(夕霧)を出産しますが物の怪が原因で亡くなってしまいます。源氏は後でこの物の怪は六条御息所の生霊だと知り愕然とするのです。ようやく葵の上との心が打ち解け始め妻としての優しさに気が付いてきただけに源氏は深い悲しみに暮れ亡骸を丁重に葬り四十九日間しめやかな喪に服します。六条御息所(京の町の六条の休息所の家に住んでいる愛人のこと)はそんな源氏の愛情に見切りをつけて娘の斎宮(伊勢神宮に奉仕する皇女)と共に伊勢に下ってしまいます。その後桐壺院は病気で亡くなり取り残された藤壺の上は後ろ盾がなくなってしまい、また源氏の恋情も避けるため出家してしまうのです。葵の上が亡くなった後は成人してからのあの紫の上(若紫・二条院の君)が妻となります。

須磨・明石
元桐壺帝の父が病気で亡くなり朱雀帝(桐壺帝と弘徽殿大后との皇子)の世になり源氏は官界に身の置き場がなくなってしまったのです。恋する藤壺の女御は出家し六条御息所は伊勢へ下ってしまい妻葵の上と恋を寄せた女性夕顔も亡くなり一人寂しく落ち込んでしまいます。そこで26才の源氏は父帝の御陵に参拝して京を去り須磨へ退去します。しかし須磨では暴風雨などの厳しい天候異変の気象のうえに怪しい夢に脅かされ気弱になっている源氏は明石の入道(出家し仏門の道に入った明石の君の父)の勧めにより明石に移ることにするのです。そこには入道の娘(明石の君)を一緒にさせたいとの思いがあったのです。源氏と明石の君は一緒に琴と琵琶を奏でさらに教養も高く品位もある明石の君を気に入るのです。そんな折、京では右大臣が亡くなり朱雀帝が退位の意向もあり次代の帝(冷泉帝)の後見として28才の源氏を召喚することになり帰京することになったのです。

澪標(みおつくし)
帰京した翌年世の中は朱雀帝から冷泉帝(藤壺との皇子)になり源氏(29才)は内大臣となり権力をもち始め一族は華やくのです。逆境に耐えた源氏一族の女性たちのためにも二条院の東院造営にとりかかります。やがて明石の君には女児が生まれ、源氏は后になる宿命を持って生まれた姫君だと喜び将来をかけて大事に育てるのです。その後成人した明石の姫君は朱雀院の皇子東宮の今上帝へ入内となりまた母(明石の君)とも一緒に住まわせるのです。源氏のこの志に明石の入道は感謝し思いが叶ったのです。女性のなかにはいかに素晴らしい源氏といえども女性には目がないなどとの世間の話もあり朝顔の君のように固くなに拒む女性もいたが婚約者(朱雀帝)がいても源氏に惹かれてしまう朧月夜の君もいた。そこで源氏は過去の女性たちに深く反省をするのです。いつぞやの六条御息所には不如意のままに終わった恋を詫びるため(亡くなってしまった六条御息所の娘の斎宮)に十分な後見を誓い冷泉帝に入内(秋好中宮)させるのです。また疎遠になった末摘花にも終生庇護を約束し廃屋同然だった邸宅は新築になり生気を取り戻します。出家した藤壺の尼さんには准太上天皇の女院につけるなど過去に恋憧れた女性たちに恋の償をして幸せにするのです。そんな源氏の澪標(身を尽くす)の気持ちが現れた帖(巻)でした。

玉鬘・初音
源氏34才、息子夕霧は元服を迎えます。また美貌と教養のある故夕顔の姫君である玉鬘(20才)は六条院(源氏)に迎えられ花散里(源氏の妻のひとり)のもとで生活をします。源氏36才の正月年賀の訪問に先ず妻たちの紫の上、花散里、明石の君、気になる女性たちの末摘花、空蝉、明石の姫君、玉鬘、などへと忙しい。ここでまた源氏は夕顔に似ている娘の玉鬘に心が奪われそうなところをしっかり者の妻の紫の上に見透かされてしまいます。やがて玉鬘は源氏や内大臣に次いで声望のある鬢黒の大将と結婚してしまいます。

藤裏葉
源氏39才の春息子の夕霧は内大臣の姫君雲居雁と結婚することになり二人はお似合いの夫婦なります。光源氏は准太上天皇となり子供3人のうち藤壺の皇子は冷泉帝・明石の娘の姫君は今上帝の后・葵の上の夕霧は太政大臣になり源氏は栄華を極める一家となるのです。源氏自身も紫の上と花散里・明石の君と共に穏やかな日々を過ごすのでした。源氏の生涯で若気の至りもあり多くの女性とお付き合いしたが最後はその女性たちに償い幸せをもたらすという作者紫式部の優しい思いを見逃すわけにはいきません。

若菜上・柏木
ところが源氏物語も藤裏葉の帖(巻)でハッピーエンドかと思いきやそうはいかないのです。源氏40才、もうここで女性関係は止めておけばよかったのですがまた元朱雀帝の第三皇女(女三の宮)とも結婚をするのです。ところがこの女三の宮が問題を引き起こして源氏を悩ますのです。それはかつて源氏が父・桐壺帝の后である藤壺の上と通じて皇子(冷泉帝)を授かったのと同じことが起きるのです。つまり女三の宮が柏木(太政大臣の息子)と通じて息子薫を生むのです。源氏自らが犯した罪の報いがこの歳(48才)になって身の上に降りかかってくるのです。結果女三の宮は責任を感じて出家してしまい、一方柏木も自らの過ちを悔いて病に倒れやがて亡くなってしまうのです。そこで源氏が薫を育てる羽目になるのです。


このように何人もの女性に囲まれるということは現代では考えられないのですがこれはその時代の婚姻形態や社会形態だったのですからそこは割り切って考えたほうがいいのでしょう。源氏51才の時最愛の紫の上が亡くなります。翌年の52才の年の瀬、紫の上の悲しみに源氏は「もの思ふと 過ぐる月日も知らぬ間に 年もわが世もけふや尽きぬる」(もの思いをしていて、過ぎてゆく月日を知らずにいる間に、この一年もわが人生も今日で尽きてしまうのか)と述懐し紫の上に先立たれ悲傷に暮れそのまま静かに来世(死)の道を開いていくことになるのです。

以上列挙してあるのはほんの一部の帖(巻)ですがさらに源氏が亡くなった後もまだまだ宮中の間では薫・匂宮・浮舟・女二の宮・六の君・中の君などと恋愛や結婚に絡んだ人間関係が出てくるのです。それはこの後の宇治10帖と合わせて全54帖をもう一度主人公「光源氏」の立場になって読み返すことにより作者紫式部の偉大さと源氏物語の奥深さに魅了され、いわゆる平安王朝における源氏物語の人間模様が古典ロマン最高傑作といわれる所以だと思われました。(高)

戦国武将 真田幸村

上田城については2023年春号のビレッジニュースの中で要害堅固な城郭とその周辺の虚空蔵山、神川の地形や城下町の複雑な路地・迷路を活かし、また武士のみならず町民や農民との一丸となった戦いで徳川秀忠軍に勝利し関ケ原合戦へ参戦させなかった史実について戦場の様子をリアルに克明に掲載されましたので今回は真田一族の立役者でいわゆる真田幸村の一面についてもう少しもう一歩戦国の世が蘇る上田城の虎口櫓門へ足を踏み入れてみます。

真田一族の古城
はじめに現在の上田城が築かれる以前の真田氏発祥の地、真田・菅平地方を訪れてみます。鎌倉時代以前から信濃の国が統括する菅平牧野の国牧責任者で国府の有力者として仕えていた。やがて国牧から私牧に代わりそこを基盤として土豪になり成長していきます。その後真田や菅平地方の防備を築き上げるため大規模で中心的な(真田本城)を造りさらに周辺に数多くの山城を築くことによって地盤と権力を強固にしていったのが勢力拡大の始まりでした。
長い年月が経った今、当時と同じ山城(本城)の場所で現在城郭は無いものの哀愁帯びた石垣や土塁の城跡に佇んでいると何処ともなく「古城」や「荒城の月」の曲が風に乗って聞こえてくるような気がします。

-古城-              -荒城の月-
松風さわぐ   丘の上      春高楼の   花の宴
古城よひとり  何しのぶ     巡る盃    影さして
栄華の夢を   胸に追い     千代の松が枝 わけいでし
ああ仰げば侘し 天守閣      むかしの光  いまいずこ
くずれしままの 石垣に      天上影は   替らねど
哀れをさそう  病葉や      栄枯は    移る世の姿
矢弾のあとの  ここかしこ    写さんとて  今もなお
ああ昔をかたる 大手門      嗚呼荒城の  よわの月

真田幸隆
歴史上初めて真田氏という名前がでてきたのは武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍と戦いをした海野平の合戦天文十年(1541)でした。この戦いで敗れた一族は上州へと逃れその時の中心人物が真田氏当初の真田幸隆でした。その後幸隆は武田信玄と手を結び武田氏と共に力を付けていきます。こうして真田氏は勢力を伸ばし幸隆の子昌幸が天正十一年(1583)本能寺の変の翌年、山城と異なって平地にいわゆる平城(上田城)と防御を兼ねた城下町を築くのです。現在の上田城は「古城」や「荒城の月」と違って今もなお当時の栄華を咲き誇っているのです。

関ケ原の戦いと真田親子
戦乱の世で真田一族の子孫を残すべく家督継承のために関ケ原の戦いでは徳川方には兄信幸(妻は家康の重臣である本多忠勝の娘小松姫)、一方豊臣方には父昌幸(妻は秀吉の重臣である宇田頼忠の娘、また石田三成の妻も宇田頼忠の娘、ですから昌幸と三成は義兄弟ということになります)と弟信繁(幸村)(妻はこれまた秀吉の重臣である大谷吉継の娘)という姻戚関係からか徳川方と豊臣方に分かれることになったことについては納得です。
徳川秀忠軍が関ケ原の合戦に行く途中、豊臣方の上田城を攻略して行こうとした秀忠の軍3万8千を昌幸・信繁(幸村)は出城戦法を生かして2千5百で撃退した史実は有名です。これにより一躍天下に昌幸、信繁(幸村)親子の名を挙ることになるのです。この戦場の場面についてはビレッジニュースに掲載されてありますので参照していただければと思います。

大坂冬の陣
このように上田では徳川軍の関ケ原への参戦を阻止したのですが天下分け目の関ケ原の戦いでは豊臣方が敗れたため石田三成をはじめ多くの豊臣方の武将が京都六条河原で処刑となった。一方昌幸・信繁(幸村)親子は徳川方の兄信幸と妻である小松姫の父本多忠勝の必死の嘆願により本来死刑になるところを高野山(九度山)へ流され幽閉されるという減刑で済みます。
それでも世の中は依然として完全には徳川の天下ではなかったのです。信繁(幸村)が蟄居されること14年目に人生最大の転機を迎えます。家康から信濃の国全土を与えるので大坂城攻めの味方になって欲しいとの誘いを断り、一方豊臣秀頼方からは大坂城の守りへの加勢依頼が訪れた。信繁(幸村)はこれに快諾し大坂で本城の南に出城(NHK大河ドラマでのいわゆる真田丸)を築き決戦に備えこの真田丸が本領を発揮して徳川勢を退却させ勝利へと導くのです。実は真田丸は上田城で勝利した父昌幸が考案した戦法を受け継ぎ採用したものなのです。この上田城では三の丸の左右に二つもの真田丸を用意していたのです。また普段は空堀で広大な庭園にしていた百間堀へは川からの取り入れ口より水を流し込み広大な湖を準備して戦いに備えて用意周到だったのです。

大坂夏の陣
ところが冬の陣の後德川軍が退却する代わりに二の丸・三の丸を埋め立てるという和議がおこなわれた。豊臣側はこれで戦いが終わると思ったのでしょうか徳川側のこのような策略の和議を結んでしまったのです。しかも冬の陣で活躍した真田丸も取り壊されたので当然戦う前から不利であった。それでも信繁(幸村)は戦略をたて家康の本陣へ六文銭の旗を背にたなびかせ息子の大助と共に果敢に突撃するも最後は討ち死にとなってしまうのです。(家康に突いた幸村の槍は家康の目の前でピタッと止まる。そのわけはたとえ家康をここで討ったところで主君の秀頼が亡くなってはこれから先生きていく意味も希望もない、最期は壮絶な死を選んだ方が武士として幸村として本望だと決断したのだ。)という仮説や逸話のロマンも生まれたのです。こうした勇猛な信繁(幸村)の戦いぶりに対し家康も死を覚悟したほどであったとのこと。そして敵方からも「真田日本一の兵(つわもの)いにしえよりの物語りにも無きの由」と賛辞が贈られたのでした。

真田十勇士
こうして関ケ原の戦いと大坂城攻防後、戦乱の世は収まり戦いのない江戸(徳川)時代へと移っていくのです。
戦国の真田信繁(幸村)の元で猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊佐入道・海野六郎・根津甚八・由利鎌之助・穴山小助・筧十蔵・望月六郎らの十勇士は戦乱の世でそれぞれの得意の戦法で大活躍をします。しかしこの十勇士の中には実存した人物もいたが想像上の人物も含まれていたのでした。これには後々の人々が英雄者に対する夢とロマンをもたせた伝説や逸話から生まれたものと思われています。このように真田上田城は「真田三代記」・池波正太郎「真田太平記」・NHKドラマ「真田丸」・直木賞作家今村翔吾「幸村を討て」など数多くの物語りでその魅力が今日に伝承されています。
幸村をはじめ十勇士が武術を鍛え修行したといわれる菅平の根子岳・四阿山、真田の角間山、上田の烏帽子岳へ今度は歴史的背景をもって登ろうかと思っています。山好きな岳人にとって多様な面からの山への魅力と憧れはいつになっても尽きることはありません。

真田幸村
そこで不思議なことは真田信繁がいつのまに真田幸村になったのでしょうか。
真田信幸は昌幸の長男であり真田信繁は次男であることは史実のとおりです。また歴史上の史料にも一切「幸村」という名前は出てこないのです。このことについてはおそらく後々ヒーローに対して語り継がれていくうちに幸隆・昌幸・信幸の「幸」をもらっていわゆる「幸村」と美化され伝承されていったのではないかと想像されています。ですから幸村は架空の名義で史実では信繁なのですが、後世になって幸村という名前があまりにも有名になったため史実とロマンの両方を重んじてあえて真田信繁・真田幸村の二つの名前を今日でも用いているのです。一方長男の信幸は関ケ原の戦い後徳川方に気を遣い一族の「幸」を消して「信幸」から「信之」とした事は史実のとおりです。

真田三代
真田幸隆が武田信玄に臣事し勢力を持ちその子昌幸が上田城を築城、昌幸・幸村親子が徳川軍を二度も撃退。そして昌幸の死後幸村は大坂城の戦いで大活躍したのであった。
一方徳川側に味方した昌幸の長男信之は父昌幸や弟幸村また妻の小松姫までも亡くしながら親子、兄弟、家のために耐え忍び家督を守り抜き江戸末期まで続く徳川政権の基礎固めに貢献し、十万石の初代松代藩主として君臨することになります。
上田城の隣にある芳泉寺には信之の妻小松姫の墓と真田氏の次の城主仙石氏の霊廟とそれぞれのエピソードの立て札があり当時の一面を垣間見ることができます。

このように四百有余年を過ぎても真田一族の栄華を思い馳せる史実とロマンに溢れた戦国上田城と戦国武将真田幸村の魅力は今もなお私たちの心を惹きつけ続けているのです。
さらにビレッジが立地しているこの地を真田氏が甲斐の武田氏やビレッジの地元諏訪氏へたびたび通った蓼科高原の歴史的な場所に現在私たちも今同じ場所にいると思うと真田氏の歴史を彷彿させる感慨深いものがあります。

皆様方もあの幸村が城内の何処かで私たちを見守ってくれていると思われる上田城へそして史実とロマンの戦国武将幸村の思惑や生き方についても想像しながら散策することによって永遠のヒーロー幸村という人物像をさらに知る第一歩となると思われます。(高)

ほんの小さな春

まだビレッジに冬期が居座り、寒さに耐え忍ぶ今日。
木々の蕾も固く閉じていますが、小さな発見がありました。

春の訪れを告げる『ふきのとう』が顔を覗かせていました。まだ手の親指ほどの大きさですが、単色の地面に明るい緑色が一際映えています。

さらに周りをみると、もう一つ目に入りました。

まだまだ残雪の多い山ですが、小さな春を感じた一日でした。

3月入って雪です

こまくさ平雪壁も1m位あり、敷地内は40~50㎝あります。

こまくさ平幹線道路です。

春を感じながらトライブに行き、横川SAの梅が咲いていました。

いちご狩りも楽しんできました。

粒も大きく味はやはり、スーパーのいちごとは別物でした。

ハウス内は30℃以上あり汗かきながら大変でしたが、楽しめました。

 

積雪情報2024-3-8

本日の別荘地内の様子です。
滝見平からしゃくなげ平まですべて雪景色となっています。
除雪により重たい雪の壁ができていますのでご承知おきください。
除雪・通水等のご依頼は早めにお願い致します。

積雪量
しゃくなげ平 40cm こぶし平 35cm 白樺平 35cm 十文字平 30cm

雨氷

雨氷  (うひょう)        神秘的  ❣

 

2024年2月22日(木)
長野県内では雨の水滴が樹木に触れた瞬間に凍り付く 雨氷現象 が見られました

 

 

 

 

神秘的な現象ではありますが倒木被害、架線や電線が断線してしまい
停電や鉄道の運行の停止など交通機関に大きな影響が出ました。