八ヶ岳は雪解けが進んでいます。
滝見平入口【4月22日(月)】
4月21日(日)TOYOTAガズーレーシングラリーチャレンジin八ヶ岳茅野が
開催されました。
聖光寺【4月22日(月)】
聖光寺【4月25日(木)】
今週末が桜の見ごろになりそうです。
蓼科ビレッジのスタッフブログです。
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今年の1月7日からNHK大河ドラマ「光る君へ」が始まりました。今まで戦国時代ものが多かったのですが今回は平安時代ものでこれを機会に平安文学の源氏物語を読むことにしました。
光る君への作者は大石静で主人公紫式部「まひろ」を吉高由里子、「藤原道長」を後の左大臣として政権の頂点に立つ役に柄本佑が演じています。源氏物語は光源氏が主人公ですが光る君へは紫式部(まひろ)を主人公としています。「源氏物語」では光源氏が女性たちと恋愛を通して最後には恵まれた境遇へ導きますが「光る君へ」では紫式部(まひろ)が道長と恋愛を通して時の最高権力者へと導いていくように思えます。そんなところを光る君へのドラマと比較しながら源氏物語を読でみたいと思います。
源氏物語とは
源氏物語は平安時代4百年のうち中期に当たる時代に紫式部によって書かれた長編小説で現在まで1千年も読み継がれている不滅の国民文学なのです。平安貴族社会における独特のストーリーで左大臣や右大臣をはじめそれぞれの階級(摂政・大臣・公卿)等における政治・出世・権力・そして帝への世継ぎ争いのなかにいかにも女性らしい表現・感性・意識がまた男性の立場から書かれているところにも魅力を感じられます。主人公の光源氏は生まれながらの和歌・漢詩文の表現に才能があり皇子としての素質も素晴らしくまた内面的に強さもあるがちょっぴり弱さも備え恋心をくすぐる魅力あるそんな彼を取り巻く姫君たちとの恋愛姿のなかに出会いと別れと出家そして死別の生涯を写し出した人間模様の物語だと思われます。
貴族社会と紫式部
光源氏の誕生から生涯の出来事に日本の四季を通して宮中の儀式・慣習・生活様式・恋文の和歌のやり取りを取り入れた中に平安時代の一端を垣間見ることができるのも私たちに当時の貴族社会への想像をかきたてます。紫式部は女性らしく美しい四季を通した風情とそれに伴う草木の花に興味を示しそのなかでも紫色の花が特に好んでいたように思われます。というのは桐壺の上・藤壺の上・葵の上・若紫(後の紫の上)・夕顔・朝顔・藤袴そして何より紫式部自身にも紫を引用しているのです。それは唯一帝の后にしか着ることが許されない紫色の御召し物の小袿姿に憧れていたのではないかと想像されます。作者も貴族社会のなかの女性のひとりなので「願わくは」と思っていたのでしょうね。
平安時代の言葉
物語のなかで紛らわしいのは同一人物においてその時々によって名前の呼び方がいくつもあるということです。例えば光源氏は(皇子・若宮・源氏の君・光る君・六条院)藤壺の女御は(先帝の四の宮・后の宮の姫君・藤壺中宮・輝く日の宮)などです。それと源氏を取りまく人物相関図や姻戚系図も複雑なのです。平安時代の言葉や言い回しも独特な古語のため戸惑う面もありますが解らなくともいちいち気にすることはなく自分なりに読み続けていくと何となく文章が繋がって意味も分かるような感じがしてきます。古語といえども所詮日本語だと思えば気が楽になります。物語は源氏が歳をとるにつれてストーリーも進んでいくのでその点では分かり易いと思われます。また解釈は自己流で間違っている箇所もあると思われますがそこはご容赦願います。では古典ロマン最高傑作の平安貴族社会の世界に入っていきたいと思います。
桐壺
「いずれの御時にか、女御更衣あまたさぶらいたまひける中に、いとやむごとなき際にあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。」(どの帝の御代の時であったか、女御(皇族や大臣家の娘)更衣(大納言家以下の娘)がたくさんお仕えしていた中に、たいした位の家柄ではない方で、特別帝に可愛がられていた方がおられた。)という書き出し文から4百字詰め原稿用紙だと約2千5百枚分の長編小説が始まります。やがて彼女は帝の后(桐壺の上)になり皇子(光源氏)が生まれます。しかし周囲からの嫉妬や嫌がらせ誹謗中傷に耐えきれず更衣出身の桐壺の上(源氏の母)は源氏3才の時に亡くなってしまいます。その後帝は妻に若い藤壺を后(先帝の第4皇女)に迎えます。源氏は亡き母(桐壺の上)に面影も気立ても似ている藤壺の宮を慕うのです。藤壺の宮もこれに応えるのでした。人びとはこの二人を「光る君」「輝く日の宮」と呼ぶようになります。やがて源氏が12才になり元服(成人式)になるのを待っていち早く左大臣は自家の将来を賭けて娘(葵の上)と結婚させるのですが4歳の年上に加え教養も気品も高く高貴な姿勢の姫君に馴染まず私邸の二条院に籠りがちになってしまうのです。そのため源氏はますます気持ちのなかでは帝の后藤壺の上に惹かれていくようになるのです。
箒木・空蝉・夕顔
五月雨の夜源氏(17才)が宿直(とのい)をしているところへ同じ年ごろの同僚たちが集まり四方山話をしているうちにそれぞれ自分の憧れの女性の話に花を咲かせます。これがいわゆる「雨夜の品定め」です。そんな話を聞かせられた源氏は妻の葵の上と馴染んでいないこともあってある女性に目が止まります。紀伊守の妻に憧れを持つようになりますが彼女は紀伊守の妻であるゆえ身の程のことを思い源氏と再度逢うことを拒んでしまいます。そこで紀伊守の妻を箒木(遠くでははっきりと見えるがいざ近くへ行くと分からなくなる)の草木に例えて「貴女の気持ちを知らないで近づこうとしたのですが箒木のように分からなくなり園原の路に迷ってしまいましたよ」と歌を詠んでいます。この箒木の帖(巻)において源氏物語のなかで唯一信濃の国が登場します。それは信濃の下伊那地方の園原の伏屋の森にある草木でいわゆる掃除に使う(ほうき)の木を紹介しています。当時国の等級が4階級あり信濃の国は上から2番目に位置し重要な国の一つでした。後に紀伊守の妻は転勤の夫と共に地方へ下ることになりお別れの形見に上着を源氏に差し出します。源氏はこの上着をセミの抜け殻と指し彼女を空蝉(うつせみ)に例え尽きることのない悲しみともの思いにふけるのです。ここに紫式部の女性らしい表現がみられます。空蝉は夫の亡き後、多くの下心ある男性に悩まされた挙句、尼さんになって出家してしまいます。
空蝉への悲しみの気持ちを引きずりながら五条に住む源氏の乳母への病気見舞いにでかけることにしました。道中垣根にみごとな夕顔の花が咲いている女性の家を見つけます。源氏はその女性をこの垣根の夕顔に連想してお目にかかりたいと申し出てお会いになります。だがその年の秋夕顔は突然物の怪に襲われ(左大臣家の頭中将との娘の玉鬘)を残して息絶えてしまうのですが源氏もまた悲しみのあまり病に倒れてしまいます。そんな源氏の内面の優しさや弱い面もあったのです。
若紫
18才の春、源氏は病気になり北山の聖のもとへ療養に行きます。そこである少女に出会います。その少女は源氏が思慕する藤壺の宮に似ていることに気づくのです。それもそのはず藤壺の宮の姪(若紫・後の紫の上)なのです。その若紫にお付き合いを望むのですが周囲の尼さんたちからあまりにも若すぎる幼い童女のため断わられるのです。やがて帰京する源氏は藤壺の宮に似た若紫を忘れられず帝の妻藤壺の宮を訪れ、こともあろうに逢瀬をもち懐妊してしまうのです。(この部分は現代文学志賀直哉の暗夜行路の主人公時任謙作の出生にまつわる人間関係に似ています。)懐妊を知った源氏は藤壺へお見舞いに行くのですが身の程を知る藤壺は会うことを固くなに断るのです。そんなこととは知らない父・桐壺帝は身重になった藤壺の宮へますます愛情を注ぐのです。途方に暮れた源氏は北山の幼い若紫を自分の私邸二条院へ同じ幼い年ごろの童女たちの仲間と一緒に遊ばせようと連れてくるのでした。
紅葉の賀
桐壷帝は祭りに身重の藤壺の宮にも息子源氏(19才)が踊る青海波という舞を見せようと連れ出します。しかし藤壺の宮は源氏の舞を心穏やかにまともに見ることはできなかったのです。一方二条院で無邪気に遊ぶ幼い童女の若紫を源氏の妻葵の上は幼い童女を嫉妬するのです。そうこうしているうちに藤壺の宮は皇子を出産します。桐壺帝は大変な喜びようで何も知らない帝はその男児を息子の源氏に抱かせるのですが当の源氏と藤壺の宮は全身が凍り付く思いで複雑極まりない心境あった。そんなことで源氏は子供の顔を見たいのですが二度と桐壺の帝へは行くことはできなかったのです。
葵
賀茂神社の祭りでは源氏(23才)がその葵祭の行列に加わるということで妻の葵の上は牛車で見物に出かけます。この時葵の上は結婚して10年目にして源氏の子を宿しました。一方愛人の六条御息所(故前皇太子の未亡人で高貴な女性)も人目源氏を見ようと網代車で出かけます。ところが一条大路で鉢合わせになってしまいます。当然葵の上の車の方が格上で権力もあるため六条御息所(愛人)の車を押しのけてしまうのです。源氏はこの顛末を知り六条御息所(みやすんどころ)に同情をするのですが六条御息所の気は収まりません。収まらないどころか嫉妬が大きすぎ怨念となって葵の上に物の怪となって取り付いてしまうのです。やがて葵の上は男児(夕霧)を出産しますが物の怪が原因で亡くなってしまいます。源氏は後でこの物の怪は六条御息所の生霊だと知り愕然とするのです。ようやく葵の上との心が打ち解け始め妻としての優しさに気が付いてきただけに源氏は深い悲しみに暮れ亡骸を丁重に葬り四十九日間しめやかな喪に服します。六条御息所(京の町の六条の休息所の家に住んでいる愛人のこと)はそんな源氏の愛情に見切りをつけて娘の斎宮(伊勢神宮に奉仕する皇女)と共に伊勢に下ってしまいます。その後桐壺院は病気で亡くなり取り残された藤壺の上は後ろ盾がなくなってしまい、また源氏の恋情も避けるため出家してしまうのです。葵の上が亡くなった後は成人してからのあの紫の上(若紫・二条院の君)が妻となります。
須磨・明石
元桐壺帝の父が病気で亡くなり朱雀帝(桐壺帝と弘徽殿大后との皇子)の世になり源氏は官界に身の置き場がなくなってしまったのです。恋する藤壺の女御は出家し六条御息所は伊勢へ下ってしまい妻葵の上と恋を寄せた女性夕顔も亡くなり一人寂しく落ち込んでしまいます。そこで26才の源氏は父帝の御陵に参拝して京を去り須磨へ退去します。しかし須磨では暴風雨などの厳しい天候異変の気象のうえに怪しい夢に脅かされ気弱になっている源氏は明石の入道(出家し仏門の道に入った明石の君の父)の勧めにより明石に移ることにするのです。そこには入道の娘(明石の君)を一緒にさせたいとの思いがあったのです。源氏と明石の君は一緒に琴と琵琶を奏でさらに教養も高く品位もある明石の君を気に入るのです。そんな折、京では右大臣が亡くなり朱雀帝が退位の意向もあり次代の帝(冷泉帝)の後見として28才の源氏を召喚することになり帰京することになったのです。
澪標(みおつくし)
帰京した翌年世の中は朱雀帝から冷泉帝(藤壺との皇子)になり源氏(29才)は内大臣となり権力をもち始め一族は華やくのです。逆境に耐えた源氏一族の女性たちのためにも二条院の東院造営にとりかかります。やがて明石の君には女児が生まれ、源氏は后になる宿命を持って生まれた姫君だと喜び将来をかけて大事に育てるのです。その後成人した明石の姫君は朱雀院の皇子東宮の今上帝へ入内となりまた母(明石の君)とも一緒に住まわせるのです。源氏のこの志に明石の入道は感謝し思いが叶ったのです。女性のなかにはいかに素晴らしい源氏といえども女性には目がないなどとの世間の話もあり朝顔の君のように固くなに拒む女性もいたが婚約者(朱雀帝)がいても源氏に惹かれてしまう朧月夜の君もいた。そこで源氏は過去の女性たちに深く反省をするのです。いつぞやの六条御息所には不如意のままに終わった恋を詫びるため(亡くなってしまった六条御息所の娘の斎宮)に十分な後見を誓い冷泉帝に入内(秋好中宮)させるのです。また疎遠になった末摘花にも終生庇護を約束し廃屋同然だった邸宅は新築になり生気を取り戻します。出家した藤壺の尼さんには准太上天皇の女院につけるなど過去に恋憧れた女性たちに恋の償をして幸せにするのです。そんな源氏の澪標(身を尽くす)の気持ちが現れた帖(巻)でした。
玉鬘・初音
源氏34才、息子夕霧は元服を迎えます。また美貌と教養のある故夕顔の姫君である玉鬘(20才)は六条院(源氏)に迎えられ花散里(源氏の妻のひとり)のもとで生活をします。源氏36才の正月年賀の訪問に先ず妻たちの紫の上、花散里、明石の君、気になる女性たちの末摘花、空蝉、明石の姫君、玉鬘、などへと忙しい。ここでまた源氏は夕顔に似ている娘の玉鬘に心が奪われそうなところをしっかり者の妻の紫の上に見透かされてしまいます。やがて玉鬘は源氏や内大臣に次いで声望のある鬢黒の大将と結婚してしまいます。
藤裏葉
源氏39才の春息子の夕霧は内大臣の姫君雲居雁と結婚することになり二人はお似合いの夫婦なります。光源氏は准太上天皇となり子供3人のうち藤壺の皇子は冷泉帝・明石の娘の姫君は今上帝の后・葵の上の夕霧は太政大臣になり源氏は栄華を極める一家となるのです。源氏自身も紫の上と花散里・明石の君と共に穏やかな日々を過ごすのでした。源氏の生涯で若気の至りもあり多くの女性とお付き合いしたが最後はその女性たちに償い幸せをもたらすという作者紫式部の優しい思いを見逃すわけにはいきません。
若菜上・柏木
ところが源氏物語も藤裏葉の帖(巻)でハッピーエンドかと思いきやそうはいかないのです。源氏40才、もうここで女性関係は止めておけばよかったのですがまた元朱雀帝の第三皇女(女三の宮)とも結婚をするのです。ところがこの女三の宮が問題を引き起こして源氏を悩ますのです。それはかつて源氏が父・桐壺帝の后である藤壺の上と通じて皇子(冷泉帝)を授かったのと同じことが起きるのです。つまり女三の宮が柏木(太政大臣の息子)と通じて息子薫を生むのです。源氏自らが犯した罪の報いがこの歳(48才)になって身の上に降りかかってくるのです。結果女三の宮は責任を感じて出家してしまい、一方柏木も自らの過ちを悔いて病に倒れやがて亡くなってしまうのです。そこで源氏が薫を育てる羽目になるのです。
幻
このように何人もの女性に囲まれるということは現代では考えられないのですがこれはその時代の婚姻形態や社会形態だったのですからそこは割り切って考えたほうがいいのでしょう。源氏51才の時最愛の紫の上が亡くなります。翌年の52才の年の瀬、紫の上の悲しみに源氏は「もの思ふと 過ぐる月日も知らぬ間に 年もわが世もけふや尽きぬる」(もの思いをしていて、過ぎてゆく月日を知らずにいる間に、この一年もわが人生も今日で尽きてしまうのか)と述懐し紫の上に先立たれ悲傷に暮れそのまま静かに来世(死)の道を開いていくことになるのです。
以上列挙してあるのはほんの一部の帖(巻)ですがさらに源氏が亡くなった後もまだまだ宮中の間では薫・匂宮・浮舟・女二の宮・六の君・中の君などと恋愛や結婚に絡んだ人間関係が出てくるのです。それはこの後の宇治10帖と合わせて全54帖をもう一度主人公「光源氏」の立場になって読み返すことにより作者紫式部の偉大さと源氏物語の奥深さに魅了され、いわゆる平安王朝における源氏物語の人間模様が古典ロマン最高傑作といわれる所以だと思われました。(高)
上田城については2023年春号のビレッジニュースの中で要害堅固な城郭とその周辺の虚空蔵山、神川の地形や城下町の複雑な路地・迷路を活かし、また武士のみならず町民や農民との一丸となった戦いで徳川秀忠軍に勝利し関ケ原合戦へ参戦させなかった史実について戦場の様子をリアルに克明に掲載されましたので今回は真田一族の立役者でいわゆる真田幸村の一面についてもう少しもう一歩戦国の世が蘇る上田城の虎口櫓門へ足を踏み入れてみます。
真田一族の古城
はじめに現在の上田城が築かれる以前の真田氏発祥の地、真田・菅平地方を訪れてみます。鎌倉時代以前から信濃の国が統括する菅平牧野の国牧責任者で国府の有力者として仕えていた。やがて国牧から私牧に代わりそこを基盤として土豪になり成長していきます。その後真田や菅平地方の防備を築き上げるため大規模で中心的な(真田本城)を造りさらに周辺に数多くの山城を築くことによって地盤と権力を強固にしていったのが勢力拡大の始まりでした。
長い年月が経った今、当時と同じ山城(本城)の場所で現在城郭は無いものの哀愁帯びた石垣や土塁の城跡に佇んでいると何処ともなく「古城」や「荒城の月」の曲が風に乗って聞こえてくるような気がします。
-古城- -荒城の月-
松風さわぐ 丘の上 春高楼の 花の宴
古城よひとり 何しのぶ 巡る盃 影さして
栄華の夢を 胸に追い 千代の松が枝 わけいでし
ああ仰げば侘し 天守閣 むかしの光 いまいずこ
くずれしままの 石垣に 天上影は 替らねど
哀れをさそう 病葉や 栄枯は 移る世の姿
矢弾のあとの ここかしこ 写さんとて 今もなお
ああ昔をかたる 大手門 嗚呼荒城の よわの月
真田幸隆
歴史上初めて真田氏という名前がでてきたのは武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍と戦いをした海野平の合戦天文十年(1541)でした。この戦いで敗れた一族は上州へと逃れその時の中心人物が真田氏当初の真田幸隆でした。その後幸隆は武田信玄と手を結び武田氏と共に力を付けていきます。こうして真田氏は勢力を伸ばし幸隆の子昌幸が天正十一年(1583)本能寺の変の翌年、山城と異なって平地にいわゆる平城(上田城)と防御を兼ねた城下町を築くのです。現在の上田城は「古城」や「荒城の月」と違って今もなお当時の栄華を咲き誇っているのです。
関ケ原の戦いと真田親子
戦乱の世で真田一族の子孫を残すべく家督継承のために関ケ原の戦いでは徳川方には兄信幸(妻は家康の重臣である本多忠勝の娘小松姫)、一方豊臣方には父昌幸(妻は秀吉の重臣である宇田頼忠の娘、また石田三成の妻も宇田頼忠の娘、ですから昌幸と三成は義兄弟ということになります)と弟信繁(幸村)(妻はこれまた秀吉の重臣である大谷吉継の娘)という姻戚関係からか徳川方と豊臣方に分かれることになったことについては納得です。
徳川秀忠軍が関ケ原の合戦に行く途中、豊臣方の上田城を攻略して行こうとした秀忠の軍3万8千を昌幸・信繁(幸村)は出城戦法を生かして2千5百で撃退した史実は有名です。これにより一躍天下に昌幸、信繁(幸村)親子の名を挙ることになるのです。この戦場の場面についてはビレッジニュースに掲載されてありますので参照していただければと思います。
大坂冬の陣
このように上田では徳川軍の関ケ原への参戦を阻止したのですが天下分け目の関ケ原の戦いでは豊臣方が敗れたため石田三成をはじめ多くの豊臣方の武将が京都六条河原で処刑となった。一方昌幸・信繁(幸村)親子は徳川方の兄信幸と妻である小松姫の父本多忠勝の必死の嘆願により本来死刑になるところを高野山(九度山)へ流され幽閉されるという減刑で済みます。
それでも世の中は依然として完全には徳川の天下ではなかったのです。信繁(幸村)が蟄居されること14年目に人生最大の転機を迎えます。家康から信濃の国全土を与えるので大坂城攻めの味方になって欲しいとの誘いを断り、一方豊臣秀頼方からは大坂城の守りへの加勢依頼が訪れた。信繁(幸村)はこれに快諾し大坂で本城の南に出城(NHK大河ドラマでのいわゆる真田丸)を築き決戦に備えこの真田丸が本領を発揮して徳川勢を退却させ勝利へと導くのです。実は真田丸は上田城で勝利した父昌幸が考案した戦法を受け継ぎ採用したものなのです。この上田城では三の丸の左右に二つもの真田丸を用意していたのです。また普段は空堀で広大な庭園にしていた百間堀へは川からの取り入れ口より水を流し込み広大な湖を準備して戦いに備えて用意周到だったのです。
大坂夏の陣
ところが冬の陣の後德川軍が退却する代わりに二の丸・三の丸を埋め立てるという和議がおこなわれた。豊臣側はこれで戦いが終わると思ったのでしょうか徳川側のこのような策略の和議を結んでしまったのです。しかも冬の陣で活躍した真田丸も取り壊されたので当然戦う前から不利であった。それでも信繁(幸村)は戦略をたて家康の本陣へ六文銭の旗を背にたなびかせ息子の大助と共に果敢に突撃するも最後は討ち死にとなってしまうのです。(家康に突いた幸村の槍は家康の目の前でピタッと止まる。そのわけはたとえ家康をここで討ったところで主君の秀頼が亡くなってはこれから先生きていく意味も希望もない、最期は壮絶な死を選んだ方が武士として幸村として本望だと決断したのだ。)という仮説や逸話のロマンも生まれたのです。こうした勇猛な信繁(幸村)の戦いぶりに対し家康も死を覚悟したほどであったとのこと。そして敵方からも「真田日本一の兵(つわもの)いにしえよりの物語りにも無きの由」と賛辞が贈られたのでした。
真田十勇士
こうして関ケ原の戦いと大坂城攻防後、戦乱の世は収まり戦いのない江戸(徳川)時代へと移っていくのです。
戦国の真田信繁(幸村)の元で猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊佐入道・海野六郎・根津甚八・由利鎌之助・穴山小助・筧十蔵・望月六郎らの十勇士は戦乱の世でそれぞれの得意の戦法で大活躍をします。しかしこの十勇士の中には実存した人物もいたが想像上の人物も含まれていたのでした。これには後々の人々が英雄者に対する夢とロマンをもたせた伝説や逸話から生まれたものと思われています。このように真田上田城は「真田三代記」・池波正太郎「真田太平記」・NHKドラマ「真田丸」・直木賞作家今村翔吾「幸村を討て」など数多くの物語りでその魅力が今日に伝承されています。
幸村をはじめ十勇士が武術を鍛え修行したといわれる菅平の根子岳・四阿山、真田の角間山、上田の烏帽子岳へ今度は歴史的背景をもって登ろうかと思っています。山好きな岳人にとって多様な面からの山への魅力と憧れはいつになっても尽きることはありません。
真田幸村
そこで不思議なことは真田信繁がいつのまに真田幸村になったのでしょうか。
真田信幸は昌幸の長男であり真田信繁は次男であることは史実のとおりです。また歴史上の史料にも一切「幸村」という名前は出てこないのです。このことについてはおそらく後々ヒーローに対して語り継がれていくうちに幸隆・昌幸・信幸の「幸」をもらっていわゆる「幸村」と美化され伝承されていったのではないかと想像されています。ですから幸村は架空の名義で史実では信繁なのですが、後世になって幸村という名前があまりにも有名になったため史実とロマンの両方を重んじてあえて真田信繁・真田幸村の二つの名前を今日でも用いているのです。一方長男の信幸は関ケ原の戦い後徳川方に気を遣い一族の「幸」を消して「信幸」から「信之」とした事は史実のとおりです。
真田三代
真田幸隆が武田信玄に臣事し勢力を持ちその子昌幸が上田城を築城、昌幸・幸村親子が徳川軍を二度も撃退。そして昌幸の死後幸村は大坂城の戦いで大活躍したのであった。
一方徳川側に味方した昌幸の長男信之は父昌幸や弟幸村また妻の小松姫までも亡くしながら親子、兄弟、家のために耐え忍び家督を守り抜き江戸末期まで続く徳川政権の基礎固めに貢献し、十万石の初代松代藩主として君臨することになります。
上田城の隣にある芳泉寺には信之の妻小松姫の墓と真田氏の次の城主仙石氏の霊廟とそれぞれのエピソードの立て札があり当時の一面を垣間見ることができます。
このように四百有余年を過ぎても真田一族の栄華を思い馳せる史実とロマンに溢れた戦国上田城と戦国武将真田幸村の魅力は今もなお私たちの心を惹きつけ続けているのです。
さらにビレッジが立地しているこの地を真田氏が甲斐の武田氏やビレッジの地元諏訪氏へたびたび通った蓼科高原の歴史的な場所に現在私たちも今同じ場所にいると思うと真田氏の歴史を彷彿させる感慨深いものがあります。
皆様方もあの幸村が城内の何処かで私たちを見守ってくれていると思われる上田城へそして史実とロマンの戦国武将幸村の思惑や生き方についても想像しながら散策することによって永遠のヒーロー幸村という人物像をさらに知る第一歩となると思われます。(高)