信玄の棒道を歩く

蓼科ビレッジのエリアに実在している「信玄の棒道」を歩いてみると戦国史上重要な役割と意義を持っていることが分かります。この信玄の棒道は実存する戦国時代の貴重な史跡でもある古道なのです。そこで信玄の棒道に因んでビレッジの立地している地元富士見・茅野・諏訪地域から始まって信濃全土に広がった戦国史を探索してみることにします。
戦国時代の争乱はそれぞれ各地の背景や経緯、戦略的思惑、婚姻関係、近隣武将との戦いや和睦の繰り返しなどが複雑に入り組み連鎖しているためそう簡単には理解できないところです。富士見・茅野・諏訪地域もその例外ではありません。では結果から遡って信濃と甲斐との戦いの歴史について「信玄の棒道」を歩きながら時代を追って史実の大筋をみてみたいと思います。

激戦地の境川合戦(大永8年 1528年)
諏訪大社下社大祝の金刺昌春が諏訪大社上社大祝の諏訪頼満との争い(永正15年 1518年)に敗れ甲斐の武田信虎に助けを求めたところから信濃諏訪と甲斐武田の因縁の戦いが始まります。金刺軍が武田軍に援軍を求めた境川合戦(富士見)は諏訪頼満・頼隆父子が金沢木舟に陣を構えると一方武田信虎は蔦木の小東に布陣し御射山神戸から境川(立場川)一帯において戦われ結果夜襲により諏訪軍が武田軍を打ち破り勝利します。勢いに乗った諏訪軍は河原辺合戦(韮崎)(享禄4年 1531年)に臨んだがここでは諏訪頼満軍は撃退されてしまいます。(この境川とは諏訪氏と武田氏が戦う以前の信濃(諏訪)と甲斐(武田)との国境が今の立場川でありこの立場川を当時境川と呼んでいたところから境川合戦といいます。)

諏訪・武田の政略結婚
このような諏訪氏と武田氏の度々の戦いは双方にとって得策でないと悟り、ましてや武田氏は強敵小田原の北条氏からの脅威もありお互いに諏訪氏と武田氏は同盟関係を結ぶことになります。その証に信虎は息女禰々(信玄の妹)を諏訪頼重(頼満は67歳で亡くなり長男も若くして死亡しているため孫の頼重が家督をとる)の正室として嫁がせたのです。やがて禰々は息子寅王丸の母となりますがこの可憐な母子には後に不吉な悲運が待ち受けているのです。禰々が嫁ぐときの持参金の代わりとして信虎が当時甲斐の領域である境川(立場川)から国界橋の釜無川までを割譲したことから現在の境界線となりました。その後頼重の先妻の息女は信玄に嫁ぎやがて息子勝頼(信玄の跡継ぎ)の母となるのです。これがいわば人質の交換であり政略結婚であったのです。
こうして諏訪・武田両軍は協力し合って各地の敵と戦いお互い力を付けていくのです。しかしこの同盟も長くは続かずまたお互いの身内同士の戦いを始めるのです。一方勝頼は織田信長の養女龍勝院が嫁ぎその後甲相同盟で北条氏政の妹北条夫人(桂林院殿)と結婚します。だが後に織田軍との戦いで信長によって敗れ名門武田家は勝頼が最後に北条夫人と共に滅亡してしまいます。こうした乱世の狭間で翻弄されながらも一族のために強く生き抜く戦国女性の姿を見逃すことはできません。
長篠の合戦(天正3年 1575年)の後勝頼の最後の戦いで甲斐の兵士たちは劣勢になると皆逃亡や謀反でいなくなってしまうのですが最後まで忠誠を誓い残って戦ったのは諏訪の郷里の兵士だけだったのです。というのも彼らは武田勝頼ではなくあくまでも諏訪勝頼として絶対的な信頼と尊敬をもっていたのです。地元諏訪の人びとの強い絆と連帯感は諏訪大社の大祭である御柱祭や夏の風物詩諏訪湖花火大会もその一つとしての表れなのです。このように強い絆は信仰心や伝統を守るという連帯感から素晴らしい郷土文化を生みそのなかから著名な文化人や文学者も出現し今も脈々と継承されているのです。

激戦地の瀬沢合戦(天文11年 1542年)
信玄が父信虎を追放(天文10年 1541年)し家督を継ぎ実権を握ったのが21歳の時であった。ところがそんな武田家の内紛に乗じまた信玄の若さにも付け込んだ諏訪頼重は小笠原氏との連合軍でこの時とばかりと甲斐に攻め込むが逆に撃退されてしまいます。翌年武田軍は信濃の村上・小笠原・木曽・頼重の連合軍と瀬沢(富士見)で激戦になり続いて桑原城の戦いから大門峠の戦いまでに発展し信玄を討つという信濃諸将の思惑に反し信玄に信濃侵攻の契機を与えることにとなってしまうのです。(この瀬沢地域に流れる武智川はその時の合戦で損害を受けた武田軍兵士の血で染まったという武血川から由来しているとのこと。)
この謀反に怒った信玄は妹禰々の桑原城主頼重を自刃させてしまいます。しかし禰々(信玄の妹)とその息子寅王丸は甲府で厚く庇護されるのです。しかし禰々は悲しみのあまり僅か16才で亡くなってしまいます。一方寅王丸は後に高藤・藤沢・伊那軍との宮川橋合戦(安国寺前合戦)で大活躍し信玄の信頼を得るのですが父の仇として暗殺を企てているとは信玄はこの時知る由もなかったのですが結局信玄に殺害されてしまいます。
そして信玄は小笠原氏の地盤の東筑さらに信濃の小県地方をも攻めあの真田氏領土をも支配領域下にしている信濃一の闘将宿敵村上義清(坂城)との戦いに上田原へと軍を進めるのです。父信虎の時代には村上義清とは同盟関係にあり真田幸隆を攻めていたのですが信玄の時代になると真田氏と武田氏は逆に同盟関係になります。これも当時としては存続をかけて領土と一族郎党や民を守るためには当時一番の得策(謀反・和睦・同盟)を選ばざるを得なかった群雄割拠の時代だったのです。

信玄の軍用道路
こうして信玄は敵地信濃の国へ奥深く進むのです。その信濃を攻略するためには甲斐からの軍隊・物資・食料・武器など運ぶのに迅速でしかも効率的な補給路でもある軍用道路が必要だったのです。小淵沢から富士見に続きこのビレッジの中にも残されている古道がこの時代のいわゆる「信玄の棒道」なのです。そう思うとこの蓼科高原も戦国史上重要な場所に位置していたことが改めて感じられます。こうして信濃の小県・上田原の戦いとその後上杉謙信との川中島の戦いへの重要な軍用道路ということになるのです。
一方この棒道はただ単に戦いのための道路でなく戦場に向かう兵士の悲愴な気持ちや、戦場へ見送る幼子を抱えた家族の切実な思いなど様々なドラマが詰まっている道でもあるのです。

上田原の戦い(天文17年 1548年)
宿敵村上義清は坂城の居城葛尾城を出発し上田原の西側で東側の武田軍と対峙することになります。中央に流れる産川を挟んで激戦が展開された。結果地の利を生かした戦いで戦術と武力に優れた村上軍の勝利となりました。結局武田軍は板垣信方・甘利虎泰等多数の重臣を失い信玄自身も負傷するという敗北に終わるのです。
そこで戦術と武力での正面からの戦いを避けた信玄は真田幸隆を使い内部工作により村上側の身内への切り崩し作戦に変えるのです。戦術と武力に長けていた村上義清もこの情報戦には負けてしまい戦うことなく越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃亡してしまいます。
義清の奥方は逃亡する際戦乱の世を憂いて前山の場所で尼さんになってしまいます。その山の断崖の上に化身となった比丘尼石(びくにいし)という尼さんの大きな姿の岩が佇んでいます。この村上家の逃亡の場面に関しては他にも史実と地元の伝説や逸話(千曲川に掛かる笄の渡しなど)が多々あり私たちを楽しませてくれます。ここから上杉軍と武田軍の戦いが川中島で始まることになるのです。

川中島の戦い(第4次の戦い 永禄4年 1561年)
川中島での戦いは実は5回も戦っているのです。一回目は村上軍が獲られた葛尾城の奪還のため上杉軍の援軍での戦いです。二回目は善光寺を巡る戦いになります。三回目は両軍にとっての重要な北信濃の攻防による戦いになります。そして四回目が激戦の川中島の戦いになるのです。ここで武田・上杉軍双方は最終的に決着をつけようという決戦に挑むのです。上杉軍の1万3千は妻女山、武田軍の2万(今川・北条軍の援軍を含む)は海津城(松代城)で対峙することになり霧の川中島八幡原において大激戦になります。

謙信と信玄の両雄の一騎打ちもあるのですが結局双方7千人もの戦死者を出したものの決着は付きませんでした。戦いで信玄の弟信繁・重臣の山本勘助らが戦死、勘助は体を切り離され仲間が持ち帰った胴体と頭を合わせたという場所が胴合(どあい)橋で埋葬地も長野インター近くにあります。戦い後両者は敵味方問わず一緒になって戦死者を集めて弔ったのですが何せ7千人ですから小高い丘のように積み上がり今でも首塚として古戦場公園に残っています。大損失を受けた両軍は甲斐と越後へ引き返すことになりました。さらに懲りもせず五回目の戦いは飛騨の争いに上杉軍が援護に出発すると武田軍も応戦のため出発し川中島で相対することになりますが双方とも結果が得られず引き上げその後は二度と川中島では戦うことはありませんでした。結局川中島での5回の戦いで両軍は痛み分けに終わったのです。
こうして両軍が信濃で争っているうちに中央では徳川と織田(豊臣)両軍は後に真田昌幸・信幸・信繁(幸村)親子を巻き込んで着々と天下取りを窺っていたのです。そして天下分け目の戦いの関ケ原合戦(慶長5年 1600年)になるのです。

信濃の戦国史
結果から遡って信濃の国をみれば上社諏訪氏と下社金刺氏とのいざこざがなければ諏訪氏と武田氏との境川合戦・瀬沢合戦から始まって、村上軍(信濃)と武田軍(甲斐)の上田原合戦さらには武田軍(甲斐)と上杉軍(越後)の川中島合戦へと発展することは無かったのではと思われます。少なくとも信濃の国が戦場になることは無かったかもしれません。また信濃の各地の武将も滅ぼされかつ領土も奪われることも無かったのではと反面では想像されますがその後の史実をみれば甲斐の国と信濃の武田領国は勝頼を破った織田信長によって平定され結局最終的には大坂城夏の陣で徳川家康の天下になってしまいます。

戦国の世を左右する諏訪の地
いずれにしてもこの富士見・茅野・諏訪地域は事実、戦国時代何度も戦いが繰り返された代表的な激戦地のひとつなのです。特に天正10年(1582年)は激乱の年になるのです。飯田・伊那・高遠を平定し杖突峠を越えて諏訪へ入った信長の長男信忠は3月3日戦いが終わっているにもかかわらず武田家と諏訪の人びとが心の拠り所として崇拝する諏訪大社上社に放火してしまいます。歴史は古く西暦が始まる頃と推定され全国に1万社もあるといわれ建御名方命を祭神とする総本社の諏訪大社上社を焼き払うとはいくら戦(いくさ)といえども織田氏はとんでもないことをするものですね。
武田勝頼の敗北後、武田家の領地分割について織田信長と徳川家康が諏訪大社近くにある法華寺において話し合いの場を設けたのですが(3月20日)、奇しくも勝頼の故郷で分割協議がされたとは皮肉なものです。また法華寺は織田信長と明智光秀との些細な出来事(3月19日~4月2日の間)が原因で「敵は本能寺にあり」の歴史を大きく変える大事件に起因したともされる寺院なのです。
そして諏訪大社上社が放火されてからわずか3か月後の6月2日信長は京都本能寺で長男信忠は二条御所で命が尽きるのも諏訪大社大明神の神罰なのでしょうか。
このように諏訪の地は戦国時代の今後の天下取りを左右する重要な地ということが分かります。一方徳川家康は焼かれた諏訪大社上社の再建に尽力をつくしたところから諏訪大社大明神が守護神となり徳川の江戸時代を長く続けさせてくれたのかもしれません。

法華寺
現在の法華寺は山門と本堂(廃仏毀釈後再建されましたがその後また放火で焼失し(平成11年 1999年)さらにその後再建した建物)だけですが江戸時代末の法華寺周辺絵図をみますと仁王門があり五重塔あり神宮寺があり普賢堂から大黒堂や鐘楼など山全体が広大な境内になっているのが窺えます。織田信長が滞在していた2週間(天正10年 1582年3月19日から4月2日)の間には徳川家康をはじめ多くの諸武将が兵糧や贈答品を持って信長のご機嫌を伺い忠誠を誓いに訪れたところからも信長の力を感じます。そのなかで北条氏政は本人が姿を見せず使者を送ってきたため信長の不興を買うことになり武田家の領地分割から外されてしまいます。このように政治の中心であるかのような法華寺でしたが明治維新で廃仏毀釈の仏教文化破壊により境内一帯の建物や寺、特に日本古来の神の信仰と外来仏教の信仰とを共存・融合・調和を理念とする神仏習合思想を持つ歴史上重要な神宮寺と共に廃寺され当時の面影の文化遺産を見ることができないのは残念なことです。

信玄の棒道
これら戦国時代の富士見・茅野・諏訪での史実とエピソードとが入り混まじった戦国の世の出来事に空想や想像も膨らみ興味は尽きることはありません。これらの戦記については富士見・茅野・諏訪のかつての戦場に巻き込まれた場所の方々から語り継がれた話を聞くことができ、またビレッジのスタッフからも豊富な知識と貴重なご意見を賜りました。このビレッジのエリアに戦国の歴史が実在する「信玄の棒道」は武田三代・徳川家康・織田信長・真田三代らの名将が活躍した戦国の世へと導いてくれます。その当時の戦国の世界へ逸る気持ちを抑え皆様方も今から500年前の激戦の戦国時代を馳せながら史跡の軍用道路「信玄の棒道」を歩いてみませんか。(高)