更級の姨捨山

更級の姨捨山

日本の名だたる古典文学の物語に登場している更級の伝説の山「姨捨山」と名月の名勝地で知られる更級の平安文学の地「姨捨山」へご案内いたします。

 

姨捨山へのアクセス

JR篠ノ井線の駅そのものの名前「姨捨駅」で下車。その姨捨駅自体が既に姨捨山のエリアなのです。そして、いわゆる姨捨山の長楽寺へは姨捨駅から徒歩10分です。明治初め諏訪の神宮寺と同様更級の神宮寺も廃仏毀釈のため消滅してしまったのです。この長楽寺は神宮寺の末寺であったが、かろうじて難を免れたのです。姨捨駅構内には伝説の姨捨について「むかしむかし」・「枝折・栞(しおり)」・「名月の田毎の月」のポスターやパンフレットはもちろん駅からの絶景美で皆様を歓迎しています。篠ノ井線は明治33年(1900)開通、駅からの眺望は四季をとおして善光寺平を一望できる風景と夜は東に対峙する鏡台山(山から昇る月の様子が鏡台の形に似ているところから呼称)から昇る名月を愛でることができます。「日本鉄道三大車窓」の一つとして上野発JR東日本の豪華寝台列車「TRAIN四季島」の観光列車のメイン停車駅にもなっています。食事しながらまたホームからの標高差551m足下に見るまさに宝石をちりばめた銀河の夜景美と夜空に浮かぶ名月の観月駅は観光客の皆様を魅了させてくれます。もちろんドライブで訪れる皆様にもこの風光美は十分堪能されるスポットです。高速道路では長野自動車道姨捨SAの姨捨スマートICを出た所です。または更埴ICからはR18号線より目的地姨捨駅への案内標識に沿って15分ほど進みます。

更埴の地名

高速道路の更埴(こうしょく)ICの標識はどのようにして名付けられたのでしょうか。県外の方からは「好色(こうしょく)」?ではと言われますがいいえそれは違います。史実は千曲川を挟んで西側は更級郡、東側は埴科郡だったのですが合併により頭文字をとって更埴(こうしょく)市になりさらに近隣の町村と合併し現在の千曲市になったという変遷を経ているのです。ですから千曲川の西側にある姨捨山は更級地域にありこの地区では伝説の地名と伝統を大切にして更級小学校・更級保育園・更埴IC・更級山・更級川など「更級」の名前を大切に引き継ぎ事実八王子、若宮、阿弥陀堂などゆかりの地名も実在しています。街なかでは名月堂(製菓店)、望月商店(青果店)、三日月屋(工務店)など生活の中にも文学の名残が溶け込んでいるのが分かります。さらにこの地域では平安文学を郷土の文学として身近に親しんでいるのです。

古典文学の地「姨捨」

では本題の姨捨山の歴史探訪に入っていきましょう。姨捨の地は一見何の変哲も無い普通の場所と思われますがなぜこれほどまでに文学的に歴史的・伝説的に日本中に広まったのでしょうか。それはいにしえの奈良時代の大和物語・万葉集から始まって平安時代の枕草子・源氏物語(宿木の巻)・更級日記に登場しさらに江戸時代では更科紀行の松尾芭蕉・虎杖等文人の俳句や歌川広重などの浮世絵の題材にもなっています。現代では歌謡ヒット曲千曲川(五木ひろし)なども加わり伝説の地「姨捨」はこうして日本中に広まり今日に引き継がれているのです。

次の3枚の写真は千曲市日本遺産推進協議会の「日本遺産月の都市千曲」からです。

大和物語(第百五十六段 姥捨)

「信濃の国の更級という所に、男すみにけり。この家に若くより姨そひてあるに、この姨いとう老いて、腰ふたへにてゐたり。(中略)この姨を深き山に捨てようと月のいとあかき夜、高き山の峰の、おり来べくもあらぬに,置きて逃げきぬ。「やや」といへど、いらへもせで家へ逃げて来ぬ。男、家で悲しうおぼえければ、かくよみたりけり。「わが心なぐさめかねつ更級や姨捨て山に照る月を見て」とよみてなむ、また行て迎えもて来にける。それよりのちなむ、姨捨山といいける。」

このように奈良時代には既に伝説になっていることが分かります。

また姨捨山(冠着山)まで姥を背負って急峻な断崖絶壁を登って行くことは不可能であり実際には麓の長楽寺が姨捨山といわれています。

 

更に言い伝えではこの姥は山に捨てられる運命を知りながら、なお息子が帰り道に迷わぬよう案じ背に負われながら木の枝を幾つも折り道しるべ(枝折・栞・しおり)を置いていったという伝説もあります。栞(しおり)とは読みかけの本の間に挟みまたすぐに読み続けることができるようにとの目印で語源は枝折から出ているとか)また、他にも敵の隣国からの攻略の口実に「勾玉に糸を通せ」・「灰で縄を編め」などの難題をここの老人の知恵と知識によって国難を守ったことなどこの地は民話の宝庫なのです。

万葉集(第3400番)

この更級では姨捨山のような悲しい話ばかりではありません。姨捨山から見おろす千曲川には古典ロマンの文学も存在しているのです。万葉集の中に収められている歌を記念して千曲川の畔に万葉歌碑が建てられています。

「信濃なる 千曲の川の 小石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾はむ」

(信濃の千曲川にある小石を恋する君が踏んだものならば大切に宝として拾います)

恋愛のほのぼのとする句ですね。このように更級の地は古典時代からの文学に富んでいる里ということが分かります。

 

ところで万葉集とは何なのでしょうか。奈良時代から平安時代初期に詠まれた歌を日本中から集めたもので天皇の作歌から始まって貴族・防人・僧侶・童女・庶民など様々な階層からの多様な内容の歌が入っています。後の平安文学作家はこの万葉集を常に意識することになるのです。この万葉集とはよろず(万)の言の葉(歌)を収集したもの。また、万葉(万世)までも伝わって欲しいとの意味が込められ題名とされているようです。

 

枕草子(第11段 山は)

作者清少納言の平安中期の枕草子は定子中宮なくしては生まれなかったのです。清少納言は学識を見込まれて一条天皇の中宮定子が女房となった時から亡くなるまでの間お仕えします。中宮定子の兄が花山院を襲撃するという事件を起こしたため妹の定子は宮中を追われ出家してしまいます。そんな境遇になった定子を慰め元気付けようと書いたのが枕草子なのです。内容的には日常生活の観察記録の日記的なものや宮廷回想の随筆的なものから地名・鳥・虫・植物・山・峯・原など様々な分野を取り入れ書くことによって定子を喜ばせたのです。そんな一節の第11段「山は」において更級山・姨捨山を奈良時代の大和物語の伝説から登場させています。

 

源氏物語

源氏物語は母(桐壺の上)を幼少の頃喪った光源氏の物語として始まり、母の面影のある女性に憧れるようになり、帝(父)の次の妻藤壺の上に惹かれるようになります「桐壺の巻」。政治・権力・出世のなかで源氏は何人かの女性とお付き合いがあるのですが総じて母の桐壺の上に似ている女性が多かったことが分かります。源氏も階級が上になると過去に恋憧れた女性たちに恋の償いとして彼女らに相応の身分や生活を与えここに源氏の優しさの一面が窺えます「澪標の巻」。そして光源氏は准太政大臣、3人の子供たちも藤壺の皇子は冷泉帝・明石の姫君は今上帝の后・葵の上の夕霧は太政大臣と栄華を極める一家となります「藤裏葉の巻」。だがやがて最愛の妻(桐壺の上に面影がある)紫の上が亡くなり野辺の送りは、折しも中秋の名月の夜だったのです「御法の巻」。だが源氏の目には月も日も無かったように源氏は深く悲しみに暮れその翌年妻の紫の上を追って来世へと向かうことになります「幻の巻」。

 

(宇治十帖・宿木の巻)

その後宇治十帖において源氏の死後は源氏と明石の君との間に生まれた娘・明石の姫君には今上帝との間に生まれた匂宮がいた。その匂宮は桐壺帝の第八皇子・八の宮の娘である中の君と結婚し懐妊もする。一方源氏と葵の上との間に生まれた若君夕霧には夕霧の娘・六の君がいた。また匂宮はその六の君とも結婚する。このような複雑な相関関係は現代では考えられないのですが当時の社会形態だったのです。やがて匂宮は中の君から気持ちが離れ中の君との夜離れが続き六の君へと傾いていくのでした。

そのような中の君の心情は「今宵かく見棄てて出たまうつらさ、来し方行く先みなかき乱り、心細くいみじきが、わが心思ひやる方なく心憂くもあるかな。」そして「姨捨山の月澄み昇りて、夜更(ふ)くるままによろづ思い乱れたまふ」と姨捨山の月を想い眺めながら、心の不安や悲しみを表していることに代用しています。このように平安文学を代表する源氏物語にも月の姨捨山が登場してくるのですからこの時代からも姨捨山はいかに有名であったのか分かります。

左大臣藤原道長の娘で一条天皇の彰子中宮に仕えている紫式部と赤染衛門も月を見て小倉百人一首に詠んでいます。

めぐりあえて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな(紫式部)

やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな(赤染衛門)

更級日記

また菅原孝標の女(むすめ)の更級日記にも姨捨山が登場してきます。作者の夫が信濃国へ国司として任ぜられることになります。やがて任務を全うし都へ戻りさらに要職につくはずの夫が病気になり亡くなってしまいます。幼子を抱えたこの作者の悲しみの胸中はあまりにも察するところがあります。悲しみに暮れ夫の赴任地の思入れが強い信濃の姨捨山を想い浮かべ「月も出て闇にくれたる姨捨になにとて今宵訪ね来つらむ」と身内の甥が訪ねて来たことに更級の姨捨を口ずさみます。さらに十月ばかり月のいみじゅうあかきを泣く泣く眺めて「ひまもなく涙に曇る心にもあかしと見ゆる月の影かな」(次々と流れる涙で曇り何を見ても慰さまない私の心だがその心にも今宵の月は夫の見た姨捨の月のように明るく澄んでみえることよ)と更級の姨捨山の月を詠みここから更級日記と題名されています。

 

ところで当時信濃の政治文化の中心であった国府はどこにあったのでしょうか。行政の国司が中央から派遣され政務を司る国府は上田の国分寺がある小県地方とされていたが後に筑摩地方に移転され今の松本の惣社辺りではないかとされていますが、この更級日記にも信濃の国へ赴任したと記されているだけで残念なことに特定の地域までは書かれていません。また現在においても歴史学者は研究していますが確固たる史料も証拠品もなく不明なのですがこのように歴史にロマンがあるのもこれはこれで良いのかも知れません。

 

更科紀行

江戸時代には松尾芭蕉の紀行文によって名月と姨捨山を俳句にした伝説の姨捨山が紹介されています。

「さらしなの里、姨捨山の月見ん事、しきりにす々むる秋風の心に吹きさはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云う。木曽路は山深く道さがしく・・・。」このように俳諧の仲間を伴って美濃国から木曾路を通り松本から明科・麻績より更科の姨捨を目指した更科紀行が始まります。ようやく目的地にたどり着いた八月十五日夜、姨捨の名月をしみじみ眺め(何ゆえに老いたる人を捨てたらむと思ふにいとど涙おちそいけれながら)有名な句を詠みます。

「俤(おもかげ)や姨ひとりなく月の友」(この山で捨てられた姨の悲しい伝説を想っているとその姨が現れて、ひとり泣いている。俤に現われた姨を月見の友として名月を眺めることである。)

「いざよいもまだ更科の郡(こほり)哉(かな)」(八月十五日夜の名月を名所姨捨山で眺めたが、帰り途の翌日の今宵、十六夜の月もまた更科の里(「坂木」(坂城)との境)で眺めることができた。なんと幸せなことであるかな)と伝説の山と月を後世に残しています。

竹取物語

月に因んだ文学で直接姨捨山に関連している物語ではないのですが姨捨山の月に例えている物語を紹介してみます。それは皆様もよくご存じの竹取物語です。

「いまはむかし、竹取の翁というものありけり。名を讃岐のみやつことなむいいける。野山にまじりて竹をとりつつある。その竹の中にもと光る竹なむ一とすじありける。そのなかに三寸ばかりのなる人、いとうつくしうてゐたり。」そこで翁は家に連れて帰り媼と一緒に育てることにするのでした。次第に成長し世にもまれな美人となり「かぐや姫」と名付ける。この噂を聞きつけた若者たちはかぐや姫に求婚をするのですがことごとく断られるのです。やがて帝の耳にも入ることになるのです。帝は早速入内(じゅだい)を勧めるのですがかぐや姫は一向にその気はなくお断りするのです。何故にこのような良き話を断るのかと帝が尋ねるに「私はこの世の人ではありません月の国の者です。」さらに「八月十五日の望月の夜、月から天人が迎えに来て私を連れ去り天女として昇天してしまうのです。」それを聞いた帝は対策を考えるのでした。早速二千人もの兵士を翁の家の周りや屋根に配備します。「やがて子の刻(午前零時ごろ)家のあたり、昼の明さにも過ぎてひかりたり。望月の明さを十合わせたるばかりの中を天人、雲に乗りて天の羽衣と不死の薬を持って降りてきたり。」その光を浴びた兵士たちは不思議にも力が抜け何の抵抗もできなくなってしまうのです。天の羽衣を着るということは今までのことは一切忘れて無情にも月へ帰るということなのです。最後にかぐや姫は翁と媼そして帝に今までのお礼を告げます。「今はとて天の羽衣着るをりぞ君をあわれと思ひいでける」(今はこれで天の羽衣を着る時になりあなた様方のことをしみじみと思い出している私です。)そして不死の薬を差し出すのですがそこで帝はすかさず返答します。「あふこともなみだに浮かぶわが身には死なぬ薬も何かはせむ」(かぐや姫に二度とあうこともないゆえに涙の中に浮かんでいるような我が身にとっては不死の薬などなんの役にたとうぞ)と返答するや否やかぐや姫は羽衣を着せられ翁、媼の号泣の中何の感情もなく何事もなかったかのようにそのまま月の世界へ昇っていくのでした。その後帝は駿河の国の一番高い山へ武士のなかでも一番「力に富んでいる士」を登らせ「不死の薬」を燃やしてしまいます。そこから「富士の山」と名付ける。

この文中で「昼の明さにも過ぎてひかりたる。その月は望月の明さを十合わせたるばかり」とありますがおそらくこのかぐや姫の昇天の情景は姨捨山のすばらしい月に例えているようにも思われます。

 

小林一茶

「名月を取ってくれろと泣く子かな」と詠んだ場所は姨捨山とは違うと思われますが月に憧れるこの句は江戸時代の信濃の俳人小林一茶の有名な句の一つなのです。

このように古代から人々は月の偉大さと美しさに憧れ願いを込め崇拝の念を持って歌や物語に表し後世に残しているのです。

 

歌謡曲・千曲川

作詞・山口洋子 作曲・猪股公章 歌・五木ひろし

 

水の流れに   花びらを

そっと浮かべて 泣いたひと

忘れな草に   かえらぬ初恋を

想い出させる  信濃の旅路よ

 

明日はいずこか 浮雲に

煙たなびく   浅間山

呼べどはるかに 都は遠く

秋の風立つ   すすきの径よ

 

一人たどれば  草笛の

音色哀しき   千曲川

よせるさざ波  くれゆく岸に

里の灯ともる  信濃の旅路よ

 

万葉の時代以前から伝説の文化と歴史をもつ姨捨山を背景に悠久に流れる千曲川を舞台に想い寄せるさざ波と暮れ行く岸で想いでのさざれ石(小石)を見つめながらの詩は万葉時代も現代の今も変わらぬ恋の物語を見事に歌い上げています。この歌は日本レコード大賞最優秀歌唱賞・日本有線大賞などを受賞しています。これらの姨捨伝説は大和物語や万葉集の奈良時代から平安時代の文学を経て江戸時代の俳諧文化さらには今日の一般大衆の人々の心の中に千曲川の流れが途絶える事がないのと同じように姨捨山の伝説も永遠と続いているのです。

また、姨捨山周辺には今でも五十基もの二十三夜塔が点在し特定の月齢の夜、経など唱え人々の心の拠り所を月に拝む「月待ち行事」を行い、悪霊を追い払い頼み事や願い事を月に縋る日本人の心の原点を求める信仰も盛んだったことが窺われます。

今年の中秋の名月は9月15日ではなく17日でした。姨捨山には多くの観月の人たちや平安文学に憧れた子供から大人まで大勢のフアンの人、人、人でいっぱい。自分も平安の世を想いながら人々に交じって姨捨山からの満月を眺めることができました。翌日の十六夜の月は曇りがちの夜空で残念ながらお預けでした。負け惜しみに「花は盛りに月は隈なきものを見るものかは」(徒然草)を引用して逆らってみました。

一千年以上もの文化の中に月を想う人々の気持ちや言い伝えが時を超えて受け継がれ、平安文学を取り入れた当時と変わらない更級の「姨捨山」に伝説の俤がいざなう月の世界を銀河鉄道でまた愛車で夢追いの地へ訪れては如何でしょうか。(高)