蓼科ビレッジの誕生には、水の使用権の問題など様々な難関がありました。
それを乗り越え開発に到った経緯を、 篠原寛さん(横谷温泉創業者、蓼科ビレッジ初代社長・藤本威宏氏の良き協力者) の手記をもとにご紹介いたします。
横谷温泉創業者、 蓼科ビレッジの初代社長・藤本威宏氏の良き協力者として、開発当初より苦労を共にする。
昭和38年10月中旬、蓼科高原一帯は真っ赤な紅葉の最盛期でした。
イースタンモータース社長、藤本威宏(蓼科ビレッジ初代社長)ご夫妻が横谷の湯の玄関先へ見えたのは、そんな秋の日の正午頃であったと思います。 お二人からは、以前に、別荘や別荘地を見せてもらいたいとのお話を伺っていました。 「ご自分の別荘はすでにお持ちのはずだから、会社の別荘でも、とお考えになっているのだろうか」。そう思いながら、横谷峡を出て乙女滝の方を案内していると、もう少し上の方も見てみたいと言われ、真剣に藪の中を分け入っていかれました。 大体、納得された様子なので横谷へ戻り、お茶を飲みながら、内山・外山財産区の関係、水利のことなどをお話ししたところ、社長がやっと本心を語りはじめたのです。 「実は、この山の観光開発をしてみたいと思っている。二百万坪ぐらい借地をしてみたいのだが、手を貸してもらえないだろうか」。
私も山の観光開発には興味を持っていて、機会があるごとにやってみたいと考えてはいました。
しかし、地区住民との話し合いや水利権という大きな問題があります。 開発の話を進めるには、まず、信用のおける会社であるか否かを確認しなくてはなりません。 私は早速調査を始めました。長野県の東京事務所にいる知人、そして内山・外山財産区の委員達にも会社調査を依頼しました。 ほどなく返ってきた回答は、双方とも同じ内容でした。イースタンモータースという会社は、自動車を中心とする販売会社で数多くのグループを持ち、そのトップである藤本社長は、東京都乗用車連盟の会長や全国乗用車連盟の副会長もこなす人望の厚い、信頼の置ける人だ、と。 この回答と、上京して自分の目で確かめたイースタンモータース本社の素晴らしさに、私は、この会社なら大丈夫と確信したのでした。
しかし、旧諏訪藩主の時代、八ヶ岳山麓を開田するための灌漑用水として作られた2つの堰は、開発が進むにつれ水不足となっていました。滝の湯堰(滝の湯川と渋川の水を横に引いたもの)と大河原堰(滝の湯川のさらに上流から引いたもの)です。 そのため、昭和初期頃から水争いが続き、人命に関わる闘争も起こるほどで、蓼科ビレッジが水の使用権を得ることは容易ではありませんでした。
その後、藤本社長と地元の一般役員の会合、さらに役員達による本社視察と経るうちに、最初は不満気味だった一部の役員もこの話に大いに乗り気になり、地元で早速、内山・外山財産区の住民を集め、説明会を開きました。
住民の中からは、「貸したきりになって、後で返してくれないなどということはないんだろうね。」という声も上がりました。
「50年掛かって木を育てても、坪5、6円にしかならない。これを貸して20円以上なら、かえって返してもらっては困るくらいだ。」と納得するまで話し合いをすると、関係住民全員が賛成してくれたのでした。 その後、社長を交えての話し合いも終え、12月中旬、内山財産区13万坪/外山財産区150万坪の内から第一期分50万坪が仮契約の運びとなりました。 社長との出会いから、約2ヶ月。あれこれの努力が一つの実を結んだことに、私たちは、深い充足感を覚えていました。
年は変わって、昭和40年。
多忙な藤本社長に代わり同社の吉田栄作専務(蓼科ビレッジ二代目社長)が担当者として蓼科に滞在することとなりました。 財産区との話し合いが続き、土地の賃貸料および水の使用料の支払い、借地の期間などの詳細も大体片付いていきました。
ところがそんな折り、滝之湯堰から「渋川と逆川の水利権の半分は滝之湯堰にあるのだから、観光開発に自由に使ってもらっては困る」との申し入れがあったのです。 「内山財産区は大河原堰より下部にあるのだし、滝之湯堰まで行くうちに地下水となって出水するのだから関係はない」と、再三交渉したのですが、どうしても承知してくれず、ついに代金を支払うことになってしまいました。 でも、内山財産区にそんなお金はありません。苦慮の末、思い至ったのが水の使用料の契約です。それを先払いの形にしてもらえないか、と無理を承知で藤本社長にお願いし、200万円を用立てていただいて、どうにかこの問題を切り抜けることができました。 他にも様々な問題が起こりましたが、なんとか整理も付き、ついに財産区の管理者・茅野市長とイースタンモータース社との間で本契約が取り交わされました。
昭和40年5月、横谷峡から水を引き、現在の滝見平から別荘地の造成が始まりました。
開発のための人事などの段取りも整えられました。 そんな時に、またもや水の問題が起こったのです。大河原堰に関係のある玉川地区の原伊市という人が水を守る会を作り、私どもへ「渋川と逆川の水は、昔から農家の灌漑用水に使われてきたのだから、観光に使用する水ではない」と言ってきたのです。しかも、裁判所に仮処分を出したというのです。
今度は市を通じて交渉を進めましたが、なかなか話はつかず、「内山財産区だけの決定で水の使用料を取るとは何事だ」というのです。 幸い、横谷峡の水は仮処分から抜けていたので、下の方から開発を進めることにしたのですが、肝心の水がなければそれ以上開発はできません。大河原堰の丸茂理事長からも交渉していただいたのですが、効果は上がりませんでした。
ちょうどその頃、現在の国道299号線と県道・渋ノ湯線をつなぐ道路を造る計画が始まっていました。
この道ができれば諏訪自動車のバスも通るし、豊平地区の渋ノ湯開発や外山財産区の開発も容易になるので、関係者合同で道路を造ることにしました。 この打ち合わせに、諏訪自動車の藤森睦臣氏(蓼科ビレッジ三代目社長)がいらしていて、会合を重ねて行くうちに、藤森氏がこの開発に協力しても良いという話しになりました。 東京の藤本社長にこの話しをしたところ、「その人は、きっと将来の蓼科を背負い立つ人物になるだろう」と、大変喜んでくれました。
それはともかく、水を何とかしなくては、と打開策に頭を悩ましている時でした。
蓼科だけでなくイースタンモータース社全体に関わる、大変なことが起こったのです。藤本社長の入院です。 日頃からとても丈夫な方でしたので、全く信じられませんでした。
その時は無事に退院したのですが、しかし、二度目の入院で、誠に残念なことに、藤本社長は帰らぬ人となってしまいました。 藤本社長の死は、国はもとより、茅野市そして蓼科の大きな損失だったと今でも思います。
当時を振り返るたびに、社長に大変な心配をおかけした水の仮処分問題を思い出します。
生前によい結果をお知らせできなかったことが、非常に残念でたまりません。 結局、水問題は、渋川や逆川の水を使わずに、なんとか地下水で間に合わせることで解決しました。初めから地下水の使用を考えついていたら、藤本社長に無用な心配を掛けずに済んだと、今更ながらに悔やまれてならないのです。 今はただ、今日の内山・外山財産地区の発展の源を作り、偉業を残された藤本社長のご冥福をお祈りするばかりです。藤本社長の面影は、この蓼科の地と人々の心の中で永遠に輝き続けていくものと信じております。
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